兩晉演義第五十回 将を選び人を得て涼州で敵を破り、宮を築き色を漁り石氏が淫を恣にする (選將得人涼州破敵 築宮漁色石氏宣淫)
桓温の昇進と殷浩の牽制
- 晋朝は桓温の蜀平定の功に対し豫章郡を与えようとしたが、荀蕤の異議で臨賀郡公・征西大将軍・開府儀同三司に改められた。譙王無忌は前将軍、袁喬は龍驤将軍・湘西伯となった。
- 桓温の威名が高まるにつれ、会稽王司馬昱は警戒し、殷浩を腹心として桓温を牽制させた。殷浩は服喪から復帰して揚州刺史・建武将軍となり、荀羨(荀蕤の弟)も征北将軍・義興太守に取り立てられ、桓温の上奏をたびたび押し返した。桓温は内心恨みを深めたが、国に大事が無いため耐え忍んだ。
王羲之の逸話
- 丞相王導の一族の若者たちは「王氏三少」と称された。太尉郗鑒が娘婿選びに門生を王家へ遣わした際、他の子弟が取り澄ます中、東の寝台で腹を出して寛いでいた王羲之だけが自然体で、これが評価されて郗鑒の娘婿に選ばれた(「東床坦腹」の由来)。
- 王羲之は書に秀で、特に隷書に優れた。魏の鍾繇の書法は曾孫の鍾琰(王渾の妻)を通じて伝わり、さらに衛夫人(衛恒の従妹)に受け継がれた。王羲之は若くして鍾繇の書法を慕い、衛夫人に師事してその筆法の淵源を悟り、絶技を極めた。
- 羲之は秘書郎、征西長史、寧遠将軍を経て、殷浩に護軍将軍を求められたが固辞し、右軍将軍・会稽内史として外任した。殷浩と桓温の不和を憂い、和解を勧める書を送ったが、殷浩は聞き入れず、両者の溝は深まる一方だった。
涼州、張重華の即位と趙の侵攻
- 涼州牧張駿が没し、世子張重華が後を継いだ。張駿は生前「涼王」と呼ばれつつも臣節を守っていたが、晩年には二十三郡を分治し大都督・大将軍・仮涼王を自称するに至っていた。
- 重華は涼州牧・仮涼王を称し、寛仁な統治を敷いたが、趙主石虎は重華がまだ若いと見て涼州侵攻を決行。王擢に武街を、麻秋に金城を攻めさせ、太守張沖を降した。
謝艾の初陣(振武の夜襲)
- 征南将軍裴恒は出兵をためらい、司馬張耽の推挙で主簿謝艾が起用された。謝艾はわずか七千の兵で麻秋討伐を願い出て許された。
- 出陣の夜、梟の鳴き声を吉兆と称して兵の士気を鼓舞し、夜襲で油断していた麻秋の陣を撃破。趙兵五千を討ち取り、麻秋は敗走した。重華は謝艾を福祿伯に封じたが、貴戚豪門の嫉みにより酒泉太守に左遷された。
大夏・枹罕をめぐる攻防
- 石虎は麻秋に大夏を攻めさせ、護軍梁式の裏切りで太守宋晏を得たが、宛戍都尉宋距は降伏を拒んで妻子を殺し自刃、抗戦した。
- 麻秋はさらに枹罕を包囲。郎坦は外城放棄を主張したが張悛・張璩がこれを退け籠城。麻秋は八万の兵で攻めたが、張璩は焼き払いや土での穴埋めで防ぎきった。郎坦は恨みから内応を図ったが露見して処刑された趙の間者ともども退けられ、麻秋・劉渾は大夏へ退いた。
謝艾の再起と大勝
- 石虎はさらに石寧を派遣したが、涼州の宋秦が民二万戸を率いて趙に降るなど劣勢に陥り、重華は再び謝艾を軍師将軍に起用した。
- 謝艾は敵を前に悠然と胡床に座って動じず、麻秋を疑心暗鬼にさせたところで伏兵を発動し大勝。麻秋は辛くも逃れた。謝艾はさらに麻秋・王擢・石寧の十二万の大軍も撃退し、俘虜・戦果は甚大で、石虎は「九州の兵力をもってしても一涼州を制せない」と嘆じ、西征を断念して遊猟に耽るようになった。
石虎の暴政と後宮の淫乱
- 太子石宣は土木工事を濫用し、諫めた領軍王朗を恨んだ。星変を口実に太史令趙攬が中書監王波を「禍を移すべき人物」に挙げさせ、石虎は王波を腰斬・その子四人も殺害した(のち無実を悔い司空を追贈)。
- 石虎は諸州から民女四万人を強制的に集めて後宮に入れ、自ら選び、抵抗する女性は殺されるか自害した。これに関わった守令五十余人も処刑し、諫言した金紫光禄大夫逯明も殺害。中黄門厳生の讒言で尚書朱軌も投獄された。
- 冠軍将軍蒲洪が上書し、聖王と亡君の対比を引いて奢侈と淫楽を戒め、朱軌の赦免と苑囿の廃止を求めたが、石虎は洛陽・長安の工事は中止したものの朱軌は処刑した。
- さらに宝物を求めて陵墓を暴き、沙門吳進の進言により十六万人を動員して華林苑を築かせ、酷寒の中で数千人が凍死。暴風雨でも数万人が溺死した。太子宣に山川祭祀を名目とした大規模な巡幸をさせ、その威容を見た石虎は満足げに語った。
石宣と石韜の確執
- 石宣は禱祀を名目に長期の巡幸で禽獣を狩り尽くし、沿道の蓄えを使い果たした。弟の秦公石韜も同様の巡幸で並び立つ勢威を示し、宣官の趙生の煽動もあって宣は韜を強く憎むようになった。
- 石韜が壮麗な宣光殿を築いたことに石宣は激怒し斬匠截梁したが、韜はさらに規模を拡大。宣は力士楊柸や趙生・牟成に韜の暗殺を命じ、成功すれば韜の領地を分け与えると約し、さらに父の喪に乗じて大事を図ろうとした。
評語
- 石虎は九州の兵力をもってしても一涼州を制せず、涼州には謝艾という人材がいたことを示す。しかし虎は反省せず、宮室造営・諫臣殺害・数万の民女強奪と淫楽にふけり、子弟にも淫を導いた。石邃の弑逆に続き石宣も弟殺害と弑父を企てるが、これは虎自身が招いた禍いであり、天道は乱世にも働いているというべきである。