兩晉演義第四十八回 敵将を斬り進んで宇文部を滅ぼし、朝議に背き襄陽城に鎮を徙す (斬敵將進滅宇文部 違朝議徙鎮襄陽城)

宇文部討伐と涉奕乾の敗死

  • 燕王慕容廆は高句麗を破った勢いで宇文部討伐に着手。当初は守りを固めて敵将莫淺渾を油断させ、一月後に急襲して大破した。宇文部酋逸豆歸は驍将涉奕乾を防戦に当てる。
  • 慕容翰らは涉奕乾と激戦し矢傷を負うが、慕容霸(後の慕容垂)と呼応する策を立て、車輪戦法で涉奕乾を消耗させたところを慕容霸が双槊で刺殺した。宇文部は総崩れとなり逸豆歸は漠北へ逃走、宇文氏は事実上滅亡した。趙の援軍(白勝・王霸)も間に合わず燕の追撃で損害を受けた。

功臣の死と慕容翰の非業の最期

  • 燕の功臣高詡・劉佩は矢傷が悪化し相次いで没した。慕容翰は矢傷から回復し騎乗の稽古をしていたところ、讒言により「詐病して謀反を企てている」と疑われ、皝の命で自害を命じられた。翰は「国家のために中原を平らげる志を遂げられぬまま死ぬのは無念」と嘆いて毒を仰いで果てた。

燕と代の縁組み

  • 代王什翼犍が興平公主の死後も再度の婚姻を求め、当初は交渉が難航したが、最終的に皝は娘を什翼犍の後妻として嫁がせ、什翼犍も翳槐(先代の代王)の娘を皝に嫁がせて燕代の友好を維持した。

庾翼の遷鎮論争

  • 晋の安西将軍庾翼は武昌府に怪異が続くとして楽郷への遷鎮を求めたが、征虜長史王述が車騎将軍庾冰に上書し、地勢・後方支援の観点から反対、庾冰はこれを容れて遷鎮を撤回させた。

桓温の台頭と庾翼の北伐上表

  • 何充は内政の主導権を巡り庾冰と距離を置き外任した。桓温(桓彝の子)は庾翼と親しく、庾翼の推挙で瑯琊内史となる。庾翼は桓温と結んで趙・蜀討伐を志し、燕・涼とも連携して北伐を上表、多くの州から兵馬を徴発し百姓を疲弊させた。
  • 庾翼は反対論を押し切って夏口に出兵し、さらに襄陽への遷鎮を上表。地勢・兵站の有利さを理由に挙げ、康帝や朝臣の異論をよそに庾冰・桓温らの支持で強行、実現させた。桓宣の軍は趙将李羆に丹水で敗れ、桓宣は憂憤のうちに病没した。

石虎の土木事業と凶兆

  • 趙主石虎は洛陽・長安の宮殿造営や運河・道路工事に多大な労役を課し、民は疲弊。貝邱の李弘が乱を起こすが鎮圧された。太子石宣は側近張離の献策で他の公侯の兵権を削り東宮に集中させ、これが諸公の恨みを買った。
  • 石の虎が動いた、太山の石が自然発火した、太武殿の壁画の人物像が異形に変じたなど数々の凶兆が現れ、白雁を射て誰も命中しなかったことに石虎は太史令趙攬の諫めを容れて南征を思いとどまり、大軍を解散させた。康帝は建元二年九月に病篤くなった。

(詩:国喪が続いた後、二年で君主がまた世を去った、讖文もあながち荒唐無稽ではなかったと歎ずる内容)

評語

慕容翰の智謀は涉奕乾や逸豆歸を見抜くほどでありながら、慕容廆の猜疑心までは見通せず自ら命を落としたことを「遠くを見通せても近くを見誤る」典型として、文種や韓信の故事に重ねて論じる。東晋の庾翼・庾冰も功を焦る点で同類だが、趙の内紛や晋康帝の凡庸さに助けられて丹水の敗戦程度で済んだにすぎず、もし石虎が本気で南下していたら対応できなかっただろうと、その謀の粗さと力量不足を指摘する。