兩晉演義第四十一回 鈴の音を察し異僧が技を献じ、軍律を失い酔漢が擒われる (察鈐音異僧獻技 失軍律醉漢遭擒)
後趙と前趙の戦局
- 後趙主石勒は東晋の内乱に乗じて司豫青徐兗の諸州を奪い、さらに寿春を陥落させる一方、石虎らに軹関から劉曜方の河東を攻めさせ、蒲坂に迫った。
- 劉曜は自ら水陸の大軍を率いて衛関から黄河を渡り応戦。石虎は敗走し、偏将石瞻は戦死、二百里余りに屍が連なる大敗となった。
- 劉曜は勝ちに乗じて南下し金墉城を攻めるが、堅城で落ちず、千金堨の水を決壊させて城内に流し込む戦法をとるも落とせなかった。滎陽・野王の後趙側太守は次々と劉曜に降り、劉曜の勢いは襄国を脅かすまでになった。
石勒陣営の動揺と出兵の決断
- 後趙の右長史張賓が病没し、石勒は深く嘆いた。後任の程遐は張賓ほどの智謀がなく、石勒の妹婿という立場で重用されていたに過ぎない。
- 劉曜が金墉を包囲すると石勒は自ら救援に赴こうとしたが、程遐らは「金墉は堅固で兵糧も足りている、劉曜の疲れを待てばよい」と諫め、石勒は激怒して剣を抜く一幕もあった。
- かつて酔って石勒の不興を買い獄に入れられていた参軍徐光が呼び戻され、「劉曜の大軍は長期の包囲で必ず緩む、精鋭で急襲すれば勝てる」と進言し、石勒はこれに同意して出兵を決めた。
佛図澄の予言と逸話
- 石勒は日頃から西域僧・佛図澄を敬っており、出兵の吉凶を占わせたところ、澄は梵語の偈を唱え、「これは出兵して劉曜を捕らえよとの意味」と解釈した。さらに七日間の斎戒を経た童子に手のひらの光の中の幻影を見せる法を行い、「多くの兵に囲まれた長い髭の白面の大男」を見せ、それが劉曜であると告げた。石勒は大いに喜び出陣を決めた。
- (挿話)佛図澄は天竺出身と伝えられ、永嘉四年に洛陽に至り、百余歳と自称し不食で過ごせたという。腹の穴から光を出す、内臓を取り出して洗うなど数々の奇術を行い、石勒配下の郭黒を通じて石勒に認められた。鉢の中に蓮の花を咲かせる術、死んだ龍を蘇らせ雨を降らせた話、涸れた濠に龍を呼んで水を満たした話などが伝わり、石勒は澄を「大和尚」と称して篤く敬った。
前趙・劉曜の内政と凶兆
- 劉曜は即位当初は諫言を聞き入れ、游子遠を用いて氐羌を平定し、宮室造営を控え、学校を興して千五百人を学ばせるなど善政を敷いていた。皇后羊氏は寵愛されたが実権はなかった。
- ある年、終南山が崩れ、篆文の刻まれた白玉が出土した。群臣は石勒滅亡の瑞祥と祝ったが、中書監劉均だけは「山崩れは国の傾く兆し、文の意味は趙(石勒側)が興り秦(劉曜側)が滅びることを示す凶兆」と反対の解釈を上書し、徳を修めて災いを払うよう諫めた。劉曜は動揺したが、劉均を罰することはなかった。
- 翌年には「趙盛」の文字が刻まれた玉璽が献上されたが、劉曜は瑞祥と称するのをやめた。その後、仇池・秦州などを平定し、涼州の張茂を服属させたが、次第に驕り酒色に溺れるようになった。皇后が代わり、若い劉芳を新たな皇后に迎え、若い近習を側に置くようになる。これを諫めた尚書郝述らは毒を賜り自尽させられた。
- 劉曜はある夜、三神が空から降りて自分にひれ伏させる夢を見た。太史令任義はこれを不吉な兆しと解き、「秦の兵が大いに起こり、主君を失い師を喪う禍が遠からず訪れる」と警告した。
石勒の渡河と洛陽攻略
- 劉曜は恐れて祭祀を行い大赦を出したが、実質を伴わず、旱魃の中でも仇池・涼州・河南への出兵を続け、略奪で財を補うありさまだった。
- 石勒は金墉救援のため大堨(後の霊昌津)で黄河を渡る。渡河の間だけ奇跡的に天候が穏やかになったため、石勒は「天の助け」と喜んだ。
- 石勒は参軍徐光と用兵の方策を語り合いながら成皋を経て進軍、洛陽の劉曜軍と対峙する。劉曜軍は退いて対岸に十余里の陣を敷いていたが、石勒は「劉曜は凡将だ」と見抜いて自信を深め、諸将の祝賀を受けた。
- 翌日の戦に備え、石勒は石虎に劉曜の中軍を、石堪・石聰に前鋒を攻めさせる部署を定めた。
劉曜の敗北と捕縛
- 一方の劉曜は三か月余り金墉を囲みながら落とせず、日々群臣と酒宴に耽り士卒を顧みなかった。石勒渡河の報にも対応が遅れ、諜報で石勒自らの大軍来襲を知って動揺し、囲みを解いて洛水西岸に退いた。
- 決戦の朝も酒を飲み続け、泥酔したまま出陣。乗馬が異様に嘶いて後退するなど不吉な兆しがあったが、なお酒を重ねて出陣した。
- 石虎・石堪・石聰の三方から攻められて前趙軍は総崩れとなり、劉曜は酔ったまま逃走。石勒自身の伏兵にも遭遇し、矢を受けながら逃げる途中、馬もろとも凍った石渠に転落し動けなくなったところを、後趙都尉石堪に矢で射られて捕らえられた。
劉曜の最期
- 石勒は「捕虜は一人でよい、無用な殺戮は控えよ」と命じて兵を収め、洛陽で三日間将士を労った後、襄国へ引き上げる。負傷した劉曜は馬車で護送され、医師の治療を受けながら移送された。
- 途中、三老の孫機が酒を捧げて劉曜に忠告の詩を贈り、劉曜も応じて一気に飲み干した。石勒はこれを聞いて「亡国の身なのに、老人に罪を数えさせるべきだった」と嘆いた。
- 襄国では小城に軟禁され、伎妾を与えられたが監視下に置かれた。かつて捕虜になっていた劉曜配下の劉岳・劉震と再会し、劉曜は自らが石勒配下の石佗を殺したことを悔い、彼らと最後の宴を共にした。
- 石勒は劉曜に太子劉熙への降伏勧告の手紙を書かせようとしたが、劉曜は逆に熙へ社稷を守り抜くよう促す内容を書いたため、石勒は激怒し劉曜を殺害した。在位十三年、戊子の年のことで、かつて劉均が予言した通りの結末となった。
(詩:讖緯の文言は当てにならないが、酒色に溺れたことこそ国が滅んだ真の原因であり、無道のまま国を保てた例はないとの嘆き)
劉曜の子・劉熙は長安に留まり社稷を守ろうとするが、その行方は次回に語られる。
評語
佛図澄の数々の秘術は前史に記されているが、真偽は確かめようがなく、たとえ事実だとしても張角・于吉の類の術に過ぎず、治国平天下の大道を語るに足るものではない。劉曜は若くして聡明で知られ、劉淵に「千里の駒」と称えられ、長じては自ら楽毅・蕭何・曹参になぞらえるほどの器量を示し、靳準の簒奪を討って劉氏を再興した功もあった。しかし金墉の一戦では泥酔して軍略もなく、たちまち敗れて捕らえられた。これは天が彼の理性を奪ったからか、それとも酒色に溺れた末の当然の帰結か。世に大丈夫たる者はあれど、酒色に溺れて驕慢に陥れば、滅亡の禍を免れることはできないのである。