兩晉演義第四十二回 前趙を併せ石勒が尊号を称し、中山を防ぎ徐遐が泣いて諫める (並前趙石勒稱尊 防中山徐遐泣諫)
前趙の混乱と長安陥落
- 長安を守っていた劉熙は父劉曜捕縛の報に動揺し、南陽王劉胤らと対策を協議した。劉胤は劉曜の嫡子だが、かつて廃嫡・立太子を巡る経緯があり実権は太子熙より劉胤側にあった。
- 尚書胡勛は「なお数十万の兵がいる、要害を固めて防ぐべき」と進言したが、劉胤は激怒してこれを斬った。以後諫言する者がなくなり、劉熙らは長安を放棄して上邽へ逃れ、関中は大混乱に陥った。
- 将軍蔣英・辛恕らは長安を占拠して後趙に降伏を申し出た。石勒は石生に長安接収を命じ、劉胤は兵を率いて奪還を図るが、石虎の援軍に大敗し、上邽まで追撃されて陥落。太子劉熙・南陽王劉胤ら王公卿校三千余人が皆殺しにされ、後宮の妃妾は将士に分け与えられた。劉曜の娘・安定公主(十二歳)は石虎に強引に側女とされた。
- 石虎はさらに前趙の官吏・関東の流民・秦雍の大族九千余人を襄国に移し、王公や胡人五千余名を生き埋めにした。ここに前趙は滅亡し、劉淵の建国から三代・三十五年で幕を閉じた。
石勒の称帝
- 石虎が前趙の伝国璽を献上し、群臣は石勒に帝号を勧めたが、石勒はしばらく固辞し、まず「趙天王」として即位。王后・太子ら一族への封爵、群臣への官職授与を行い、水徳を承けるとして旗色などの制度を定めた。
- 右僕射程遐は「なお東晋に亡命中の祖約を放置しているのは道理に合わない」と進言し、石勒はこれを容れて祖約を都に呼び寄せた。
祖約一族の粛清
- 祖約は招きを喜び子弟を連れて参内するが、石勒は仮病を装って会わず、程遐に応対させた。程遐は祖約の一族を集めた上で「反逆の罪により誅する」と宣告し、甲士が踏み込んで祖約とその一族数十人を捕らえた。
- 市場で処刑される際、祖約は幼い孫に「お前まで巻き添えにしてしまった」と涙するが、その場で兵士に奪われ殺された。祖約一族の男子はことごとく斬首されたが、祖逖の庶子・道重だけは後趙の将・王安の計らいで密かに助けられ、僧として生き延びた。婦女は官奴・胡人の婢妾とされた。
王安の恩義と祖氏の存続
- 王安はもと羯族の奴で祖逖に仕えていたが、祖逖の勧めで石勒の下へ送られ左衛将軍にまで出世していた。祖約一族の処刑に際し「祖逖の血筋を絶やしてはならない」と道重を救い出し、寺に匿った。
- 祖逖の異母兄・祖納は祖約と不仲であったため連座を免れ、東晋で温嶠の推挙により光禄大夫として天寿を全うした。祖氏の家系はこうして命脈を保った。
石勒の帝位と後趙の拡大
- 石勒は群臣の請願を受けて正式に皇帝を称し、建平と改元、臨漳に遷都した。以後は史書の慣例に倣い単に「趙」と称される。
- 荊州監軍郭敬らが東晋の襄陽を攻略し、南中郎将周撫は武昌に退いた。趙は隴右の氐羌の反乱も鎮圧し、高句麗・粛慎・宇文部・涼州の張駿・西域諸国が次々と朝貢や服属を申し出るなど、威勢を大いに広げた。
鄴宮造営と諫言
- 石勒は鄴に壮大な宮殿を築こうとし、廷尉続咸の諫言に激怒して投獄しようとするが、中書令徐光の諫めで思いとどまり、続咸を許して慰労した。
- 大雨で流れ着いた大量の材木を天啓と喜び、宮殿造営に着手する。宴席で「自分は歴代のどの君主に比するか」と問われ、徐光の過大な賛辞をたしなめ、「自分は劉邦・劉秀に及ばぬまでも、曹操や司馬懿のような孤児寡婦を欺く輩とは違う」と応じた。
- 石勒は文字は読めなかったが、学者に古典を講読させて聞き、的確な論評を加えて人々を感心させた。『漢書』で酈食其の六国復興策を聞いて誤りと見抜き、張良の諫止を聞いて安堵する逸話もあった。
陶侃の襄陽奪還
- 石勒が高く評価していた東晋の将は祖逖と陶侃の二人だった。陶侃は襄陽陥落・武昌危急の報に驚き、また蘇峻の旧将馮鉄が自分の子を暗殺して石勒に投じたことに怒り、書を送って抗議。石勒は馮鉄を斬って使者に見せ、陶侃も使者を送って和を通じる素振りを見せた。
- 実はこれは陶侃の計略で、和睦にみせかけて趙の警戒を緩めさせ、子の陶斌と桓宣に樊城を奇襲させて奪還、伏兵で郭敬の援軍も打ち破った。襄陽もついに奪還し、桓宣が鎮守して十余年にわたり趙の攻撃を退け続けた。
石勒の対晋外交の失敗と天変
- 陶侃に計られたと悟った石勒は同じ手で東晋と講和しようとするが、東晋は使者を拒絶し贈り物を焼き捨てたため、石勒は激怒し出兵を考えるも、相次ぐ天変と内憂のため実行を控えた。
- 建平三年の夏、雷が宮殿を直撃し、雹害が数千里に及ぶ被害をもたらした。中書令徐光は介子推の祟りと解釈し寒食の再興を勧めたが、黄門郎韋謏は『春秋左氏伝』を引いて「藏氷の非礼が原因」と反論、石勒は韋謏の説を採り並州のみで寒食を復した。
- 建平四年の夏には塔の鈴が独りでに鳴り、佛図澄は「国に大喪の兆し」と告げた。まもなく巨大な流星が河に落ち、愛子の石斌が急死する事件が起きるが、佛図澄が呪術で蘇生させたと伝えられる。
後継を巡る不安
- 太子石弘は成人し東宮で政務を分担、驃騎大将軍・大単于の秦王石宏も政務に参与した。長年鄴を鎮めてきた石虎は大単于位を石宏に取られたことを不満に思い、石邃に「主上没後には皆殺しにしてやる」と漏らすほど恨みを募らせた。
- 太子弘は文人肌で武人らしさに欠け、石勒はこれを案じたが、徐光は「創業と守成は違う」と慰めた。徐光はさらに「中山王石虎は凶暴で権謀に長け、いずれ皇太子の脅威になる、今のうちに権力を削るべき」と進言したが、石勒は功臣である石虎を信頼し取り合わなかった。
- 右僕射程遐も同様に石虎の専横と残忍さを警告し、早期の対処を強く求めたが、石勒はなお聞き入れず、程遐は涙ながらに退出した。
(詩:虎を養うことは元来禍の種、事前に備えを固めなかったことを嘆く歌)
評語
石勒は一代の梟雄と呼ぶにふさわしく、劉曜を巧みに謀り前趙を併呑した手腕は見事であった。称帝後に祖約や馮鉄を誅殺したのも、権謀とはいえ道理に外れるものではなく、晋に叛いた祖約や主君の子を殺した馮鉄を誅するのは当然のことであった。しかし遠くを見通す一方で身近な危険には疎く、事の兆しには気づかなかった。凶暴な石虎を御しきれず、徐光や程遐の諫言を用いなかったことが、石勒の死後まもなく子孫が滅びる原因となったのである。