兩晉演義第四十三回 顧命に背き梟の子が家を毀ち、夢兆に凜として狐は首を丘に帰す (背顧命鴞子毀室 凜夢兆狐首歸邱)

徐光・程遐の再度の諫言と石勒の憂い

  • 程遐と徐光は石虎への対処を話し合うが、強大な兵権を持つ石虎に対抗する術がなく、諫言を重ねるほかないという結論に至った。
  • 徐光は改めて石勒に「陛下の憂いは四肢の患いにすぎない、真の大患は腹心にある」と述べ、中山王石虎が凶暴で権謀に長け、太子への不敬な態度を見せていることを警告したが、石勒は黙して答えなかった。

石勒の発病と石虎の専横

  • 蛇鼠の争い、馬に角が生えるなど怪異が相次ぐ中、石勒は西巡の途中で発病し都へ戻った。病が重くなると太子弘や側近を呼び寄せようとしたが、石虎は勅命と偽ってこれを阻み、王公大臣の見舞いも一切拒絶して情報を遮断した。
  • 石虎はまた秦王石宏・彭城王石堪を無断で呼び戻し、少し快復した石勒に見咎められると「秦王が里帰りを望んだだけ」と偽って言い逃れた。

石勒の死と後継の簒奪

  • 天変が相次ぐ中、石勒は病が篤くなり、簡素な葬儀と平常通りの統治継続を遺言し、太子弘の脆弱さを案じつつ石虎に輔弼を託して六十歳、在位十五年で崩じた。
  • 石虎は喪の実権を握り、遺骸を夜のうちに山中へ密葬し、城外には偽の陵墓を設けた。太子弘を脅して程遐・徐光を投獄させ、齊王石邃を宮中に入れて太子を監視させた。
  • 弘は恐れて石虎に譲位を申し出るが、石虎は表向き固辞しつつ結局これを認めさせ、弘を即位させて延熙と改元。程遐・徐光は市中で処刑され、石虎自身は丞相・魏王・大単于となり、一族に要職を独占させて実権を完全に掌握した。太子宮は崇訓宮と改称され、勒の后劉氏以下は幽閉同然の扱いを受けた。

石堪の挙兵と失敗

  • 劉后は密かに彭城王石堪を呼び、太后の詔で諸鎮に義兵を挙げさせるよう頼んだ。石堪は兗州占拠を図るが失敗し、譙城へ逃れる途中で捕らえられ、石虎の命で鼎で炙り殺された。
  • 石虎はさらに劉后が謀に関与したと知り、崇訓宮に踏み込んで自尽を強い、弘の生母程氏を新たな皇太后に立てた。

関中平定と石虎の勢力拡大

  • 石堪誅殺に憤った石生・石朗が挙兵するが、石虎はまず洛陽の石朗を急襲して捕らえ処刑、続いて長安の石生も鮮卑の裏切りなどにより敗死させ、関中を平定した。氐酋蒲洪・羌帥姚弋仲も相次いで石虎に帰順した。
  • 上邽に拠っていた郭権は東晋に帰順を申し出るが、石虎の追討軍を恐れた上邽の人々が郭権を殺して降った。

石虎の簒奪と幼帝弘の廃位・殺害

  • 反対勢力を平定した石虎は帝位を望むようになる。太子弘は自ら璽を奉じて譲ろうとするが石虎はいったん拒み、その後「愚昧で天下を治められない」として弘を海陽王に廃した。
  • 群臣の勧進を受け、石虎は「居摂趙天王」を名乗り建武と改元、子の石邃を太子とした。その後、崇訓宮に幽閉していた弘・程太后・秦王宏・南陽王恢らを、夜陰に乗じて一族もろとも殺害させた。弘は在位一年余り、二十二歳での死であった。

姚弋仲の直言と石虎の東北巡行

  • 各地の鎮将は石虎に祝賀を送ったが、西羌大都督姚弋仲だけは病と称して応じず、召し出されると「大王は英雄だと思っていたのに、なぜ簒奪などしたのか」と面と向かって非難した。石虎は弁明したが咎めなかった。
  • 石虎は「天子は東北より来る」との讖文に合わせて信都へ巡幸し、自らの即位を正当化しようとした。

徐州の離反と江南の動揺

  • 徐州従事朱縦が趙の刺史を殺して東晋に投降すると、石虎はこれを討ちつつ歴陽まで南下して東晋を威嚇した。歴陽太守袁耽の急報は誇張され、建康は大いに動揺した。

陶侃の死

  • 折しも太尉荊州牧陶侃が病没しており、東晋は辺境防衛の要を失っていた。陶侃は襄陽奪還の功で大司馬大将軍を拝命したが固辞していた。
  • 若い頃に得た織布梭が龍になった話、両翼を得て天門に昇る夢で片翼を折られた話、廁で貴人の予言を受けた話、指の紋に「公」の字が浮かんだ話など、陶侃にまつわる数々の瑞祥の逸話が伝わる。これらの験が的中したことから、陶侃は驕りを戒め、長沙公に封じられて以降は昇進を望まなかった。
  • 咸和七年、七十六歳で病篤くなった陶侃は上表して辞職を願い出た。上表では、自らの功績を誇ることなく、なお賊を討ち平らげられぬことを憂い、後事を王愆期に託し、司徒王導・司空郗鑒・平西将軍庾亮への信頼を述べ、故郷への埋葬を望んだ。
  • 陶侃は軍事・財物をすべて几帳面に引き継いだ後、輿に乗って館を去り、見送りの人々に別れを告げ、樊渓に至った翌日に世を去った。朝廷は大司馬を追贈し、諡は桓とした。

陶侃の評価と後任

  • 陶侃は四十一年の軍旅生活で明察・果断をもって知られ、道に落ちた物を拾う者もいないほど治安が行き届いていたと伝えられる。梅陶や謝安の父・謝裒はその明晰さと法の運用の巧みさを称えたが、蘇峻の乱での動きの遅さについては批判も残る。
  • 後任には庾亮が任じられたが、清談を好む殷浩を側近に用いるなど風流に流れ、陶侃には遠く及ばなかった。石虎の南下の報に晋朝は動揺し、高齢の王導が大司馬・仮黄鉞として指揮を執り、諸将を各地に配して防備を固めた。

(詩:江南の士気の衰えを憂え、慌てて将を送るだけで実質的な備えにならないことを嘆く歌)

評語

石勒における石虎は、劉淵における劉曜に似た存在で、いずれも主君を助けて国を興した功臣であった。しかし劉曜は靳準から国を奪い取った点でなお中興の名分があったのに対し、石虎は石勒の子から国を奪った点でその罪はより重い。石勒・石虎が滅ぼした劉氏の運命は、石勒の妻子にもそのまま返ってきたのであり、虎を養って人を噛ませればやがて自分も噛まれるという因果応報の速さに驚かされる。東晋の将で趙が恐れたのは祖逖と陶侃の二人のみで、なかでも陶侃の功績は大きい。蘇峻の乱で援軍を急がなかったことから異心を疑う声もあったが、それは行き過ぎた見方であり、陶侃はやはり東晋屈指の名臣というべきであろう。本回で陶侃の最期を詳しく描いたのは、善を尽くして記すという意図による。