兩晉演義第四十回 逆賊を梟首し乱を戡定して成功し、元舅を宥め親を顧み法を曲げる (梟首逆戡亂成功 宥元舅顧親屈法)
蘇峻方の内紛と路永の離反
- 祖約が敗れて歴陽に逃げ込んだことで、蘇峻配下の路永・匡術・賈寧らは孤立を恐れ、司徒王導ら建康の名士を皆殺しにして人望を断ち、蘇峻の腹心だけで固めるよう進言した。
- 蘇峻は日頃から王導を敬っており、この案を採らなかった。これに失望した路永は離反を決意する。
- 王導はこれを察知し、参軍袁眈を使って路永を帰順させることに成功した。
陶侃・温嶠陣営の苦境と毛寶の献策
- 陶侃と温嶠は蘇峻と長く対陣するも決着がつかず、蘇峻は各地を攻略して勢いを増し、西軍の士気は下がっていた。
- 温嶠軍は兵糧が尽き、陶侃に借りようとしたところ、陶侃は「良将がいないのに戦を続けられるか、荊州の守りも心配だ、いったん西へ帰る」と弱気な態度を示した。
- 温嶠は昔の名将の例を挙げて説得し、「事ここに至って退けば人心が離れる」と強く諫めた。陶侃はなお黙したまま。
- 参軍毛寶が進み出て、「陶公が退けば軍全体が崩れる。まず自分に兵を貸してほしい、糧道を断ってみせる」と申し出て、陶侃はこれを承知し兵数千を与えた。
兵糧攻めと大業戍の攻防
- 竟陵太守李陽も温嶠のために陶侃を説き、陶侃は米五万石を温嶠軍に融通した。
- 毛寶は蘇峻方の句容・湖熟の屯糧を焼き払うことに成功し、蘇峻軍の兵糧の根を絶った。陶侃はこれにより江上に留まり続ける決意を固めた。
- 一方、蘇峻配下の韓晃・張健らは大業の砦を包囲し、郭默守備の城は水を断たれて糞汁で渇きをしのぐほど追い詰められ、郭默は囲みを破って脱出した。
- 京口の郗鑒は動揺する部下の退却論を退け、進言した参軍曹納を厳しく叱責して忠義を説き、大業への援軍と陶侃への救援要請を行った。
石頭城への進軍と蘇峻の戦死
- 陶侃は自ら大業救援に赴こうとしたが、長史殷羨は「歩戦に不慣れな我が軍が大業を救うより、石頭城を攻めれば大業の囲みも自然に解ける」と進言し、陶侃はこれに従った。
- 陶侃は水軍で石頭城を攻め、庾亮・温嶠・趙胤らは歩兵で白石から南進することになった。
- 蘇峻は自ら八千の兵を率いて迎撃し、子の碩と部将匡孝に趙胤軍を突かせた。匡孝の奮戦で趙胤軍は後退したが、蘇峻はこれに気をよくして自ら数騎で突出し、追撃してきた温嶠軍とも合流した趙胤軍に敗れて退却する。
- 退却中、蘇峻の馬がつまずいて落馬したところを、陶侃配下の彭世・李千が鉤矛を投げつけ、背中に命中して落馬。二人はただちに首を斬った。
- 蘇峻軍八千は総崩れとなり、遺体は八つ裂きにされた。石頭城には弟の蘇逸が籠城を続けたが、韓晃は大業の囲みを解いて石頭へ引き上げた。大業を攻めていた管商・弘徽は、郗鑒配下の李閎・滕含に撃破され、管商は投降、弘徽は張健を頼った。
- 温嶠は石頭城外に本営を構え、旧官吏に帰参を呼びかけ、多くが応じた。
建康の奪還と成帝の救出
- 蘇峻方の匡術が守っていた台城は、光禄大夫陸曄の弟・陸玩の説得で西軍に帰順。百官も陸曄を推して宮城軍事を統括させ、陶侃は毛寶・鄧岳を城の守備に入れた。石頭城のみが未陥落のまま年を越す。
- 右衛将軍劉超・侍中鍾雅らが成帝を西軍へ奉じて脱出させようとしたが計画が漏れ、任讓が蘇逸の命で宮中に入り二人を捕らえ、成帝の哀願も聞かず二人を斬殺した。
- 蘇逸方は火矢で台城を攻め、太極東堂などを焼いたが、毛寶らが防戦し、石頭城が攻撃されたとの報で兵を退いた。
- 陶侃・温嶠らが石頭城を攻め、郗鑒配下の滕含も加勢。蘇逸・蘇碩は苦戦し、蘇碩は温嶠の水軍に討ち取られ、韓晃は城から逃走する際に将兵が将棋倒しとなり多数死亡した。
- 滕含は混乱に乗じて城内に突入し、蘇逸を討ち取り、任讓も捕らえた。成帝は無事に温嶠の船へ移され、群臣に迎えられた。まもなく陶侃も合流し、成帝を京師に戻し、蘇逸・任讓を処刑、西陽王羕とその二子も誅殺された。王導は蘇峻に奪われていた符節を取り戻したが、陶侃に皮肉を言われ赤面した。大赦が布告された。
残党の掃討
- 峻党の張健は曲阿に逃れ、弘徽・韓晃らと合流するが進路を巡って争いになり、張健は弘徽を斬殺。健は水路、韓晃らは陸路で吳興を目指したが、王允之に迎撃されて大敗し、男女一万余人と財宝を奪われた。
- 残った健・晃は西へ逃げるも郗鑒に阻まれ巖山に逃げ込み、韓晃は山中で応戦するが矢が尽きたところを李閎軍に包囲され討ち取られた。張健も逃げ切れず投降し、罪を問われて斬首された。
- 峻党は完全に平定され、趙胤配下の甘苗が歴陽を攻めると、祖約配下の牽騰が城を開いて降伏。祖約は一族を連れて後趙に亡命した。
遷都論争と戦後の論功行賞
- 建康の宮殿は焼失し、しばらく仮の宮を用いることになったため、温嶠は豫章遷都、三呉の士人は会稽遷都を主張したが、王導は「建康は王気の地であり、質素倹約に努めれば国力は回復する」と反対し、遷都論は退けられた。
- 褚翜が丹陽尹となって散り散りになった民を集め、京邑は落ち着きを取り戻した。
- 論功行賞では陶侃が侍中太尉・長沙公、郗鑒が侍中司空・南昌公、温嶠が驃騎将軍・始安公、陸曄が江陵公に叙せられ、卞壺・桓彝・劉超・鍾雅・羊曼らには官爵と諡が追贈された。
- 帰順した路永・匡術・賈寧への論功については、温嶠が「もとは蘇峻の腹心で乱の張本人、命を助けられただけでも幸い」と反対し、王導も断念した。
庾亮の引責と成帝の慰留
- 陶侃は江陵から巴陵への移鎮を願い出て許された。温嶠も鎮地へ戻ることを願い出て、輔政への留任を辞退し、私財を宮廷に献じて西へ向かった。
- 庾亮は成帝に謝罪し、辞職と隠遁を願う上表を行った。上表では自らの才が足りぬのに要職に就いたこと、外戚として重用されたこと、祖約・蘇峻の乱を招いた責任は自分にあり、劉太后や明帝の死にも自らの咎があると縷々述べ、厳罰を求めた。
- 成帝は詔で「蘇峻の反逆は誰の目にも明らかで、庾亮を咎めるのは筋違い、乱を鎮めた功績を賞すべき時に過去を責めるのはおかしい、先帝の遺託を全うしてほしい」と慰留した。
庾亮の左遷と卞敦の処分
- なおも逃亡を図った庾亮だったが、舟を朝廷に押さえられ、外鎮への赴任で罪を贖うことを願い出て、平西将軍・豫州刺史として蕪湖に鎮することになった。
- 乱に際して援軍を出し渋った湘州刺史卞敦は、陶侃の弾劾を受けたが、王導が寛大な処置を主張し、広州刺史へ転任。卞敦は病のため赴任できず光禄大夫となり、間もなく病死したが散騎常侍を追贈された。
温嶠の死
- 温嶠は建康から武昌へ戻る途中、牛渚磯で怪物が棲むとの伝説の淵を犀の角を燃やして照らしたところ、異形の者たちを目にした。その夜、夢に現れた異人に「なぜ我らを照らしたのか」と咎められ、殴られて目覚めると前歯が痛んだ。
- 元々歯の病があった温嶠はこれを機に病が重くなり、旬日を経ずして四十二歳で世を去った。侍中大将軍を追贈され、諡は忠武。
郭默の乱
- 温嶠の後任として軍司劉胤が江州刺史となったが、酒色に溺れて政務を顧みなかった。
- かつて劉胤に侮辱された後将軍郭默は、これを恨みに思い、夜襲で武昌に入り、詔があると偽って劉胤を殺害、その妾と財産を奪い、自ら江州刺史を称して劉胤の首を建康に送り謀反の罪をなすりつけた。
- 王導は事態を制御できず、郭默を豫州刺史に任じてお茶を濁そうとしたが、武昌太守鄧岳の報告を受けた陶侃は「主君殺しを州刺史にするなら、宰相を殺せば宰相にでもするのか」と王導を強く非難し、自ら兵を率いて武昌を包囲した。
- 郭默配下の張丑・宋侯らは陶侃の威勢を恐れて郭默を捕らえて降伏させ、陶侃は郭默を斬って首を京師に送った。朝廷は陶侃に江州の統括と刺史職を兼ねさせた。
(詩:法を曲げて君を害した者が新任の職を得るとは道理に反する、陶侃がいなければ賊がそのまま栄達していたであろうとの嘆き)
陶侃はこの功でますます威名を高め、後趙もその武威を憚って南への進出を控えた。折しも後趙の石勒は前趙を併呑して勢いを増していたという。
評語
東西の軍を合わせても蘇峻討伐に長い時間を要したのは、諸将が無能だったからではなく、号令が統一されず互いに様子見をしたためである。蘇峻が突出して討たれたのは天罰というべきで、必ずしも人の力によるものではない。書中で終始一貫して討逆に志したのは温嶠ただ一人であり、毛寶の勇敢さも温嶠の激励によるところが大きく、陶侃らは取り立てて評価するに足りない。外戚の重鎮でありながら乱を招いた庾亮は死をもって責を負うこともなく、ただ自ら過ちを述べて世の非難を鎮めようとしたに過ぎない。傍観して動かなかった卞敦も罪を問われず、東晋の政治の乱れがここに見える。幼い成帝に責めを負わせるのは酷だが、実際に責任を負うべき王導が、当時「江左の管仲」と称えられていたのは、はたして正当な評価だったのだろうか。