兩晉演義第七回 玉座を指し諫言するも功なく、帝の傍らで権豪が政を専らにする (指御座諷諫無功 侍帝榻權豪擅政)
齊王攸の憂死
- 二公主が武帝に齊王攸の留任を涙ながらに嘆願するが武帝は聞き入れず、王済・甄德を左遷する。羊琇は楊珧を恨んで刃を懐に迫ろうとするが逆に弾劾されて憤死し、李熹も辞職後に世を去る。
- 攸は詔に従い出鎮せざるを得ず、博士らの度重なる留任嘆願も却下され、諫言した曹志・庾旉らも官職を剥奪される。中書監荀勗の讒言により武帝は攸への疑念を深めていた。
- 出立前、攸は憤懣から吐血する病を発するが、御医は武帝の意を汲んで「異常なし」と報告する。武帝の再三の督促の中、攸は身なりを整えて参内するが、まもなく死去。武帝は一時悲しむが馮紞の慰めで涙を収める。息子の攸子冏が跡を継ぐ。同時期、出鎮に反対していた扶風王駿も憂憤のうちに没する。
名臣たちの相次ぐ死
- 汝南王亮が太尉に、山濤が司徒に、衛瓘が司空に任じられるが、山濤は老病のため間もなく死去。清廉な生涯(家に妾を置かず、死後は古い家しか残らなかった逸話)が語られる。
- 後任の魏舒も清廉で人望があり、若い頃の予言逸話(外家の邸から貴い甥が出る、十五歳で兵刃に死ぬ等)を交えて紹介される。衛瓘と協力して朝政を支える。
衛瓘の諫言と皇太子の資質問題
- 衛瓘は皇太子(後の恵帝)の凡庸さを憂い、酒に酔った体で「この御座が惜しい」と暗に廃太子を勧めるが、武帝にはぐらかされる。
- 武帝は太子に難題を答えさせて試すが、太子妃賈南風が家臣に代筆させて切り抜け、衛瓘の懸念は退けられてしまう。この一件で賈充・賈妃は衛瓘を深く恨む。
- 日食や龍の出現などの吉凶をめぐる宮中の逸話、劉毅が九品中正制の弊害を痛烈に批判する長文の上奏をするが、改革は実現しない。
- 劉毅・魏舒が相次いで没し、召還された杜預も赴任途中で病死。杜預の治績(水利事業、『春秋経伝集解』の著述など)が回顧される。
- 衛瓘は楊駿一派の策謀で息子の縁組を解消させられ、失意のうちに辞職する。
楊駿の専権と武帝の崩御
- 楊駿は汝南王亮・皇子たちを次々と地方に出鎮させ、自派を固める。皇孫遹(謝玖所生、賢さで武帝に愛される)が太子の代わりに期待されるが、生母賈南風の嫉妬から他の妃の懐妊が虐殺される事件が起き、武帝は一時賈妃廃位を検討するも周囲の取りなしで撤回する。
- 太熙元年、武帝は病篤くなり、楊駿が禁中に留まって詔令を専断するようになる。武帝は一時意識を取り戻し、汝南王亮を呼び戻すよう命じるが、楊駿は詔の発出を遅らせる。楊皇后の主導で楊駿を太尉・太子太傅・都督中外諸軍・録尚書事とする遺詔が作られ、武帝はろくに確認できないまま崩御する(在位二十五年、五十五歳)。臨終に汝南王亮の到着を問うたが叶わなかった。
評語
- 齊王攸の憂死、山濤・魏舒の相次ぐ死により晋には賢臣が失われたとする。
- 衛瓘は太子の廃立を進言しながら徹底できず、劉毅らに比べて胆力に欠けたと評する。
- 武帝は太子の不才・賈妃の悍しさを知りながら決断できず、佞臣や後宮に欺かれ続けたことが、後の乱の遠因になったと総括する。