兩晉演義第六回 宮女を集め羊車で気ままに寵愛し、外孫を養子とし宗を乱す (納群娃羊車恣幸 繼外孫螟子亂宗)
王濬の不満と益州護軍範通の忠告
- 王濬は功に対する恩賞が軽いことに不満を抱き、朝廷でたびたび愚痴をこぼすが、武帝は取り合わない。
- 益州護軍範通は、功を誇らず謙遜すれば評価が上がると諭し、王濬もかつての鄧艾の末路を恐れていたと明かして反省する。
- 博士秦秀・太子洗馬孟康らの弁護もあり、王濬は鎮軍大将軍・散騎常侍に進み、後に撫軍大将軍まで昇進、太康六年に八十歳で没し武と諡される。
天下統一と州郡の整理
- 蜀・呉が相次いで晋に併合され、天下は十九州・郡国百五十余に再編される(司・兗・豫・冀・並・青・徐・荊・揚・涼・雍・秦・益・梁・寧・幽・平・交・広の十九州)。
- 降主のその後として、劉禅(安楽公)は泰始七年、孫皓(帰命侯)は太康二年にそれぞれ洛陽で病没。魏の曹奐も鄴城で厚遇されたまま、後の恵帝泰安元年に没したことが語られる。
- 武帝は文治への転換を掲げ、州郡の兵を大幅に削減する詔を下す。
州兵削減への異論と武帝の享楽
- 交州牧陶璜や右僕射山濤が州兵削減の危険性を諫めるが、武帝は詔を出した手前もあり改めない。
- 天下太平に浮かれた武帝は、呉から接収した宮女ら約五千人を後宮に迎え入れ、羊車に乗って気の向くまま後宮を巡っては寵愛する。宮女たちは竹葉と塩汁で羊を誘い寵を争うが、やがて羊も慣れて効かなくなる。
- 外戚の楊駿・楊珧・楊済(三楊)が権勢をふるい、功臣は疎んじられる。侍御史郭欽が異民族の内地移住の危険を説く上奏をするが、武帝は一笑に付す。実際に鮮卑の慕容渉歸が昌黎に侵入するが、辛くも撃退される。
石崇と王愷の奢侈比べ
- 中護軍羊琇・後将軍王愷ら外戚が驕奢を極める中、散騎常侍石崇はさらに桁違いの富豪ぶりを見せる。かつて荊州刺史時代に手下に商人を襲わせて富を蓄えたという逸話も語られる。
- 石崇と王愷は蝋燭を薪代わりにする、錦の幕を張り巡らすなど贅を競い合い、最後に武帝から賜った珊瑚樹を石崇が打ち砕いた上で、自邸に蔵する多数のより立派な珊瑚樹を見せつけて王愷を辱める場面がある。
- 車騎司馬傅咸が奢侈を戒める上書を行うが、聞き入れられない。
劉毅の直諫と羊琇弾劾
- 司隷校尉劉毅が羊琇の収賄を弾劾し、一時は罷免させるが、まもなく元の地位に戻ってしまう。
- 太康三年の元旦、南郊祭天の後、武帝が「自分は漢の何帝に比べられるか」と問うと、劉毅は「桓帝・霊帝に比べられる。彼らは売官の銭を国庫に入れたが、陛下は私門に入れている分、なお劣る」と痛烈に答える。武帝は怒らず、直言する臣を得たことを喜ぶ。
張華の左遷と讒言
- 武帝が後事を託せる人物を尋ねた際、張華は齊王攸を推挙するが、武帝は齊王への猜疑心から不興を示し、以後張華を遠ざける。
- 荀勗・馮紞の讒言により張華は幽州へ左遷されるが、統治に手腕を発揮し異民族からも信望を集める。武帝が召還して宰相にしようとした矢先、馮紞は鍾会の乱を引き合いに「功高くして賞されぬ者は変を起こしかねない」と暗に張華を警戒するよう説き、武帝はこれに従って張華の召還を取りやめる。
賈充の死と養子相続問題
- 賈充にはかつて実子が二人いたが、いずれも妻郭槐が乳母を虐待死させたことに起因して夭折し、後継ぎが絶えていた。
- 賈充の死後、郭槐は自分の娘賈午の子である外孫韓謐を、亡き実子黎民の後継として賈氏に迎えようとする。異姓を後継に立てる前例のなさを郎中令韓咸らが諫めるが、郭槐は強引に上表し、武帝も詔を下してこれを認めてしまう。
- 韓謐は賈姓に改め喪主を務め、手厚い葬儀が行われる。諡号をめぐっても博士秦秀は「荒公」を提案するが、結局武帝の意向で「武」の字が採用される。
齊王攸の出鎮
- 齊王攸は人望が厚く朝野の期待を集めるが、荀勗・馮紞・楊珧らが結託して排斥を図り、馮紞の進言で武帝は攸を大司馬・青州都督として都から出す命令を下す。
- 王渾・李熹・羊琇・王済・甄德ら多くの重臣が反対の上書をするが受け入れられず、王済・甄德は妻の公主(常山公主・京兆長公主)を通じて武帝に留任を嘆願させるが、これも功を奏さない。
評語
- 山濤の州兵削減への諫言や郭欽の異民族移住策への上奏は当を得ていたが、外征・国防の議論に終始し、武帝自身の内政の乱れ(呉の宮女五千人を後宮に入れたことなど)を誰も強く諫めなかった点こそ本質的な問題だと評する。
- 賈充の妻郭槐が外孫を無理に後継に立てたことよりも、武帝がそれを安易に許可したことの方が罪深いとし、清明さを失った武帝の判断力の衰えが、後の齊王攸の追放にもつながったと結ぶ。