兩晉演義第五回 金陵を衝き諸路が同時進撃し、孫皓を捕らえ二将が功を争う (搗金陵數路並舉 俘孫皓二將爭功)

馬隆論功と呉討伐論

  • 馬隆が秦涼を平定した後、論功行賞をめぐり異論が出るが、衛将軍楊珧の進言で予定通り恩賞が下る。
  • 呉主孫皓は国境が平穏なのに乗じて淫逸を極め、宴席で群臣を泥酔させては密偵の黄門郎に失態を告発させ、面を剥ぎ目をえぐるなどの酷刑で臣下を廃人にしていた。
  • 益州刺史王濬は呉の内情を上奏し、老齢を理由に早期の東征を訴える。賈充・荀勗は反対を続けるが、張華は羊祜の遺志を継いで賛成する。将軍王渾も孫皓の北進の動きを警戒し出兵を進言する。
  • 荊州都督杜預も上表し、朝議の異論に反論して今こそ好機であると説く。武帝は張華の後押しもあって出兵を決断し、賈充を大都督、楊済を副将として二十余万の大軍を六方面から進発させる。

六路進軍と緒戦

  • 吏部尚書山濤は退朝後、私語で慎重論を漏らすが表立って反対はしない。
  • 龍驤将軍王濬は長江を下り、丹陽を落として太守盛紀を捕らえる。江中の鉄鎖・鉄錐は筏と火炬で焼き切って突破し、西陵の呉軍守将らを撃破、荊門・夷道・楽郷を次々陥落させ、陸晏・陸景ら呉将を捕らえる。
  • 安東将軍王渾は尋陽を破って呉将を降し、鎮南大将軍杜預は奇計で呉都督孫歆を生け捕り、江陵も攻略。沅湘以南の諸郡が次々帰順する。
  • 平南将軍胡奮・王戎らも王濬軍と合流して夏口・武昌を攻略する。

賈充の撤兵論と建業攻略

  • 春の増水と疫病を理由に賈充が撤兵を上奏するが、武帝は取り合わず、杜預も強く進軍を主張して秣陵(建業)へ進む。
  • 呉丞相張悌は沈瑩の慎重論を退けて渡江・迎撃するが板橋で大敗し、張悌・沈瑩ともに戦死する。
  • 王濬の艦隊は建業に迫り、呉将張象は戦わず降伏。孫皓は陶浚に迎撃を命じるも兵は集まらず、ついに降伏を決意。璽綬を送り、王濬・王渾・司馬伷それぞれに降書を届ける。王濬は肉袒面縛で出迎えた孫皓を丁重に扱い、軍紀を厳しく保って建業に入城する。

王濬・王渾の功争い

  • 武帝は羊祜の功に感謝しつつ王濬を第一の功と考えるが、王渾は王濬が自分の指揮下に入らず単独で建業を落としたと弾劾する上表を提出する。
  • 武帝は王濬を咎めつつも重い処分はせず、王渾は功を奪われた不満から兵を進めて王濬を攻めようとするが、参軍何攀の勧めで孫皓の身柄を王渾に譲ることで収める。
  • 王濬は長文の弁明書を武帝に奉り、詔の到達が自軍の到着に間に合わなかった経緯や、王渾一派の讒言を訴える。武帝は各軍を召還して功過を裁定することとする。

戦後処理

  • 孫皓は洛陽に送られ帰命侯に封ぜられる。建平太守吾彦のみ孫皓が降るまで抵抗を続け、後に金城太守となる。
  • 諸葛誕の子・諸葛靚は姉(琅琊王妃)の家に隠れていたが武帝に見出され、侍中を固辞して郷里に隠棲する。
  • 武帝は大赦して太康と改元。臨席した孫皓との問答(かつて南方でも同じ席を設けて陛下を待っていた、との皮肉)や、賈充の詰問に孫皓が酷刑の理由を平然と答える場面が語られる。
  • 論功行賞では廷尉劉頌が王渾を第一功、王濬を次功としたため武帝は劉頌を左遷するが、結局王渾一派の勢いに押され王渾を公に進爵、王濬は侯に留まる。王濬は最後まで不満を抱く。

評語

  • 呉討伐の発案は羊祜、実際の武功は王濬、間で推進したのは張華にあるとし、他は付和雷同にすぎないと評する。
  • 武帝は聡明でありながら結局は朝臣の私情(王渾びいき)に流され、公平を欠いたと批判。
  • 王濬も功を誇って小人物のふるまいを見せた点は惜しまれるが、無事に生涯を全うできたのは幸運であったとし、韓信・彭越・晁錯らの末路と対比して締めくくる。