兩晉演義第四回(第004回)

継后楊芷と外戚の驕り

  • 新皇后楊芷(芷、字李蘭)は容姿・徳性ともに優れていたとされる。父楊駿は車騎将軍に進み、駿の弟楊珧は「一門二后は宗族を滅ぼす例が多い」と自重を求める上表をするが、これは後に自らを守る布石ともなる。
  • 楊駿は外戚として驕り高ぶり、鎮軍将軍胡奮の忠告にも耳を貸さなかった。

諸王の分封と八王の布石

  • 楊珧らの建言により、都に留めていた宗室諸王を各地の藩に出鎮させる制度改革が行われ、扶風王亮の汝南王への転封など多数の王が改封・出鎮する。これが後の八王の乱の布石となる。

羊祜と対呉戦略

  • 荊州の羊祜は呉の名将陸凱の存命中は隙を見せず、陸凱の死後に呉討伐を画策し始める。王濬を益州刺史に留任させ、密かに大船団を建造させる。
  • 呉の建平太守吾彦は異変を察知し警告するが、暗君孫皓は宮殿造営に耽り取り合わない。
  • 羊祜は徳をもって呉の民心を懐柔する一方、陸抗とは互いに礼を尽くす関係を保つ(酒・薬の贈答の逸話)。孫皓は陸抗を疑い、その進言も用いなかった。
  • 陸抗の死後、呉の防備は緩み、孫皓は迷信じみた瑞兆に踊らされる。

羊祜の上表と病没

  • 羊祜は呉討伐の好機を説く上表を武帝に呈するが、賈充・荀勖・馮紞らの反対で実現しない。
  • 咸寧四年、病篤い羊祜は病を押して入朝し、討伐を重ねて進言。後事を杜預に託し、まもなく没する(享年五十八)。清廉な生涯と襄陽の民に慕われた逸話(堕涙碑)が語られる。
  • 同時期、太傅何曾も死去。奢侈な生活を博士秦秀に批判されるが、武帝は旧功に免じて「孝」と諡する。

劉淵の伏線と馬隆の樹機能討伐

  • 匈奴左部帥劉豹の子・劉淵(元海)の出自と才能が紹介され、朝臣の一部は登用に警戒感を示すが、王渾の弁護もあって処断されず、後に左部帥を継がせてしまう(西晋滅亡の伏線)。
  • 涼州の樹機能討伐に司馬督馬隆が起用され、独自の戦術(廂車・強弩の精鋭部隊)で勝利を重ね、ついに樹機能を討ち取り秦涼を平定する。

評語

  • 孫皓の暴虐は「乱を取り亡を侮る」機会を晋に与えたとし、羊祜の呉への懐柔策は姑息な計略ではなく、外交は仁義だけでは通らないとする現実主義的な評価を下す。
  • 峴山の堕涙碑の逸話を通じて羊祜の徳を称える一方、馬隆の登用も武帝の知人の明として評価し、開国の主には必ず見るべき長所があると結ぶ。