兩晉演義第八回 権勢を恃み楊氏一族が禍を招き、賈后が凶暴に振る舞い姑を廃す (怙勢招殃楊氏赤族 逞兇滅紀賈後廢姑)

楊駿の専権と反発

  • 武帝崩御後、楊駿は太極殿に居座って国政を主導し、恵帝(衷)を即位させ、永熙と改元。楊氏を皇太后、賈南風を皇后に立てる。楊駿は虎賁を並べて殿門を固め、汝南王亮を早々に地方へ赴かせ、さらに謀反の嫌疑をかけて討伐しようとするが石鑒の諫めで思いとどまる。亮は夜のうちに許昌へ逃れて難を免れる。
  • 楊済・傅咸・石崇らが楊駿に亮の召還と自らの引退を勧めるが、聞き入れられない。老臣が次々世を去る中、楊駿は勝手気ままに振る舞う。
  • 楊駿は恩賞を大盤振る舞いして人心を得ようとするが、傅只・何攀らの諫言も無視して強行し、自らは太傅・大都督・仮黄鉞・録朝政に上り詰め、朝政を独占する。傅咸の再三の諫言にも耳を貸さず、甥の勧めで一時は矛先を収めるものの、実権は手放さない。
  • 楊駿は賈后を警戒し、甥の段広・腹心の張劭に機密と禁兵を掌握させるが、朝野には専権への不満が募る。孫楚・蒯欽らの諫言も効果はなく、匈奴出身の王彰は将来の乱を予見して仕官を拒む。

恵帝擁立と賈后の野心

  • かつて和嶠が武帝に「太子は暗愚で家事を任せられない」と直言していた経緯があり、賈南風はこれを深く恨んでいた。恵帝即位後、広陵王遹が太子に立てられ、和嶠も少保に任じられるが、賈后との間に確執が残る。
  • 賈后は権勢を独占したいが、上に皇太后、下に楊駿がいて意のままにならず、両者の排除を企てる。楊駿に恨みを持つ孟観・李肇を腹心とし、董猛を通じて楚王瑋・淮南王允を都に呼び寄せる。

楊駿誅殺

  • 永平元年、賈后は孟観・李肇に命じて恵帝に「楊駿謀反」と偽って訴えさせ、恵帝はろくに確かめずに楊駿の官を剥奪し討伐の兵を発する。東安公繇・楚王瑋らが兵を率いて楊駿邸を包囲。
  • 楊駿は狐疑逡巡して主簿朱振の献策(雲龍門を焼いて皇太子を擁立する策)を実行できず、傅祗ら群臣も次々と離反する。楊駿の兵は裴頠の機知で瓦解し、最終的に楊駿は馬小屋に隠れているところを発見され、乱刺されて殺される。
  • 楊太后が「太傅を救う者に賞す」との帛書を城外に放って救援を試みるが、賈后側に発覚し逆用され、「太后も謀反に加担した」と喧伝される。楊珧・楊済・張劭・李斌・段広ら一党数千人が処刑され三族が誅される。楊珧は刑死の直前まで無実を訴えるが取り合われない。
  • 高士孫登が楊駿在世中に布団を引き裂いて「斫斫刺刺」と叫んだ奇行や、温県の狂人の童謡が、後の楊駿の非業の死を暗示していたと語られる。

楊太后の廃位とその母の死

  • 事後の実権は東安公繇に移り、大赦・改元(元康)が行われる。賈后は策謀により楊太后を永寧宮に移し、群臣を煽って太后弾劾の上奏をさせる。
  • 張華は太后を漢の廃趙太后の故事に准じて処遇するよう穏当な案を出すが、下邳王晃らのより厳しい主張が通り、楊太后は庶人に落とされ金墉城に幽閉される。
  • さらに賈后は太后の生母龐氏の助命嘆願も退け、「大義滅親」を口実に龐氏を斬首させる。太后は髪を切り額を地に打ちつけて母の命乞いをするが叶わなかった。

論功行賞と宗室・外戚の対立

  • 楊駿誅殺の功により汝南王亮が太宰に、衛瓘が太保に、その他多数が加増封爵される。傅咸は亮の濫賞と専権を諫めるが聞き入れられない。
  • 賈后の一族(賈模・郭彰・賈謐ら)が朝政に食い込む一方、東安公繇は賈后の専横を恐れて廃后を画策するが、実兄の東武公淡の讒言で汝南王亮に排斥され、帯方へ左遷される。宗室の勢力は弱まり、外戚の権勢がいっそう強まる。

評語

  • 賈南風の凶悪さを呂后・武則天と比較し、才も色も伴わないまま権力を握って楊駿一族を族滅させた罪の重さを批判する。
  • 楊駿の罪は専権にとどまり大逆には当たらないとし、誣告による誅殺は罰が重すぎると論じる。楊太后・その母龐氏も無実でありながら犠牲になったとし、朝廷の群臣が悍后に迎合したことも厳しく非難する。