南北史演義第083回 長孫晟が謀を献じ突厥を制し、沙鉢略が稽首し隋朝に服する (長孫晟獻謀制突厥 沙缽略稽首服隋朝)
陳との緊張と新都の造営
- 陳主叔宝は父の喪中、隋主が丁重な国書を送ったのを臆病と誤解し、無礼な返書を送った。隋主は激怒したが、突厥への備えを優先し南征を後回しにした。
- 長安の旧都が手狭で水質も悪いとの理由で、庾季才の進言もあり、隋主は龍首山麓に新都・大興城を造営、約1年で完成させ遷都した。
突厥の内紛と沙鉢略可汗の即位
- 突厥は伊利可汗以来の系譜を経て佗鉢可汗の代に至る。佗鉢は北斉・北周の双方から貢納を受けて「両児」と呼び侮っていたが、北斉滅亡後は北周と和親し、趙王招の娘・千金公主を娶った。
- 佗鉢の臨終の遺命は兄の子・大邏便への譲位だったが、部衆は大邏便の出自の低さを理由に拒否し、結局摂図(沙鉢略可汗)が立った。大邏便は阿波可汗として北部を、玷厥は達頭可汗として西方を分治することになった。
- 突厥の風習で兄弟の妻を娶る慣わしにより、沙鉢略は千金公主を妻とした(可賀敦=可汗妃の意)。
千金公主の復讐要求と長孫晟の離間策
- 千金公主は周の宗廟が滅んだことを恨み、沙鉢略に隋への報復を促した。沙鉢略は故北斉の高宝寧と結んで隋を攻めようとした。
- かつて突厥に抑留されていた長孫晟は、沙鉢略の弟・処羅侯と誼を通じ、帰国後に突厥の実情を隋主に報告。「玷厥と摂図の間には既に亀裂があり、遠交近攻・離強合弱の策で各可汗を分断すべし」との上奏を行い、隋主に高く評価された。
隋と突厥の戦い
- 長孫晟の献策により隋は達頭可汗・処羅侯にそれぞれ使者を送り内応を約させた。沙鉢略は40万騎で侵攻したが、達奚長儒率いるわずか2千の隋軍が3昼夜14戦の激戦で持ちこたえ、突厥軍にも大きな損害を与えた。達頭可汗が離反して兵を引いたため、沙鉢略も深入りできず撤退した。
- 長孫晟が「鉄勒が隋と結び沙鉢略の本営を襲う」との流言を流すと、沙鉢略は恐れて出塞した。翌開皇3年、隋は衛王爽らを八道に分けて出兵させ、朔州で夜襲をかけて沙鉢略の陣営を急襲、沙鉢略は着の身着のまま敗走した。
- 幽州総管陰寿は突厥の敗退に乗じて高宝寧を攻め、これを滅ぼした。竇栄定は阿波可汗と対峙し、史万歳が一騎討ちで勝利したことで阿波は隋に和議を求めた。長孫晟は使者を送り、阿波に達頭と結んで沙鉢略に対抗するよう反間の策を仕掛けて成功させた。
沙鉢略の帰順
- 沙鉢略は阿波の母妻を殺して報復したが、達頭の支援を得た阿波に押されて次第に衰勢となった。さらに幽州でも敗れ、三方から圧迫された沙鉢略は千金公主と相談の上、隋に和親を求め、公主は自ら楊氏改姓・隋主の娘を称する上表を行った。隋主は千金公主を大義公主に冊封した。
- 虞慶則・長孫晟が突厥に赴き、沙鉢略に拝礼を迫った。当初は「先祖以来人に跪いたことがない」と拒んだが、長孫晟の説得(可賀敦は隋帝の娘ゆえ、沙鉢略も隋の女婿)で拝礼を受け入れ、さらに臣を称することも承知した。
- 阿波は独立して西突厥を称し勢力を広げた。沙鉢略は隋に援助を求めて漠南への移住を許され、晋王広の支援を受けて阿波を撃退。ついに隋皇帝を「真皇帝」と仰ぎ藩属となる上表を行った。
隋の内政整備
- 突厥服属後も隋は長城修築、義倉の設置(長孫平の提案)、広通渠の開削などを進め、賦役軽減・酒税廃止・礼制整備を行い、国力を充実させた。
吐谷渾の内紛
- 吐谷渾王誇呂は老いて廃立を繰り返し、少子・嵬王訶が隋に降ろうとしたが、隋主は「父子の道を全うすべし」として出兵援助を断った。
梁士彦らの謀反未遂
- 尉遅迥討伐後に功のあった梁士彦・宇文忻は不遇を恨み、劉璆(士彦の妻と密通していた)と共に謀反を計画したが、士彦の甥・裴通の密告で発覚し、三人とも処刑された。
沙鉢略の死と後継争い
- 開皇7年、沙鉢略が病死。子の雍虞閭は病弱なため、遺命により弟の処羅侯に位を譲ろうとしたが、処羅侯は祖訓(兄弟継承の否定)を理由に固辞し、結局処羅侯が莫何可汗として即位した(叔姪の譲り合い)。
- 処羅侯は隋の支援を得て阿波を捕らえたが、隋は長孫晟・高熲の進言で骨肉相残を避け阿波を赦免、後に阿波は憤死した。処羅侯も西征中に矢傷がもとで死去し、雍虞閭が都藍可汗として立った。千金公主は突厥の風習により雍虞閭の妻となった(3度目の可賀敦)。
(詩:夷狄の風習は代々近親婚を重ねる、なぜ漢人の女までそれに倣うのか。廉恥が地に落ちたのを嘆く、淫婦がどうして国の仇を報じられよう)
雍虞閭の代も朝貢は絶えず続いた。隋は西北を平定し、次いで東南(陳)の経略に向かう。
評語
- 夷を以て夷を制すは中国の対夷策の上策であり、漢の班超の匈奴制圧も隋の長孫晟の突厥制圧もこれによる。夷人は互いに信義なく、利で誘い威で脅せば自滅する。長孫晟の献策はわずか数語ながら夷狄の実情を見抜いており、その後の施策も悉く効果を上げた。夷を制すること自体は難しくなく、その策と人材が得難いだけである。
- 千金公主は宗廟を忘れず復讐を志したが、佗鉢・沙鉢略・都藍と三たび嫁ぎ、節義を失い、隋への服属を自ら求めるに至った。婦女の見識の浅さの一例である。