南北史演義第082回 刀を揮い救いに遇い逆弟が謀に敗れ、酣宴で聯吟し艶妃が寵を専らにする (揮刀遇救逆弟敗謀 酣宴聯吟艷妃專寵)

蘇威の登用と刑律・財政の整備

  • 隋主堅は西魏の度支尚書蘇綽の子・蘇威を太子少保兼納言度支尚書に起用した。蘇威は権勢を避けて隠棲していたが、高熲の推薦で召し出され、高熲と並んで朝政に参与するようになった。倹約と軽賦を進言し、隋主はこれを容れて苛政を除いた。
  • 隋は高熲・楊素らに命じて周の刑律を魏晋以来の旧律を基に修正させ、梟首・鞭打ちなどの酷刑を廃し、死刑・流刑・徒刑・杖刑・笞刑の五刑を簡明に定めた。士大夫の罪は群臣の公議を経るものとし、拷問にも上限を設けるなど、寛刑主義を採った。後に蘇威に命じてさらに簡素化させた。

鄭訳の失脚

  • 解職された鄭訳は道士に祈祷させたことが厭魅とされ、隋主に問い詰められた。さらに母と別居していたことで不孝を弾劾され、隋主は皮肉を込めた詔で「孝経」を賜り母との同居を命じた。後に隆州刺史に任じられた。

陳との関係と国内統治

  • 岐州刺史梁彦光・新豊令房恭懿の治績が評価され、全国の模範とされた。晋王広・蜀王秀・秦王俊がそれぞれ行台尚書令として方面を分担した。
  • 陳が周羅睺・蕭摩訶らを送り隋境を侵したが、陳主頊の急逝と叔宝の即位により陳側が和議を求め、高熲の進言で隋は喪を秘して撤兵した。

陳の内乱――始興王叔陵の謀反

  • 陳主頊には42人の子があり、長子叔宝が皇太子、次子叔陵(始興王)は淫暴で悪逆な性格であった。叔陵は密かに謀反を企み、母の墓を晋の謝安の墓地に強引に営むなど非行を重ねたが、父の溺愛で罰されなかった。
  • 新安王伯固(文帝の子)は叔陵に取り入り腹心となった。太建14年春、陳主頊が病に倒れると、叔陵は薬刀を研がせるなど不穏な動きを見せた。
  • 陳主頊が崩御した際、叔陵は太子叔宝の首を薬刀で斬りつけたが、刃が鈍く致命傷に至らず、皇后柳氏や乳母、弟の叔堅(長沙王)らに阻まれて逃走した。叔陵は東府に籠り兵民を募ったが応じる者はなく、新安王伯固のみが加勢した。

叔陵の滅亡と叔宝の即位

  • 長沙王叔堅は蕭摩訶を召して東府を攻めさせた。叔陵は和睦を持ちかけたが摩訶は使者を斬って拒絶。叔陵は妃妾を井戸に投げ込み、伯固と共に逃亡を図ったが追撃を受け殺害された。伯固も殺され、両者の子は死罪・庶人とされた。
  • 叔宝が即位し、大赦を行い功臣を封じた。陳主頊は在位14年、享年53、対斉には優勢だが対周には及ばず、「中主」程度と評された。

叔堅の栄枯

  • 即位後の叔宝は病のため柳太后・長沙王叔堅に政務を委ねたが、叔堅の専横を疎み、次第に権力を削って地方に出したり呼び戻したりを繰り返した。
  • 叔堅は不遇を託ち、木偶に祈祷させたことを咒詛と訴えられ投獄されたが、叔宝は旧功に免じて赦し官職のみ剥奪した。

江総・毛喜と佞臣の台頭

  • 太子詹事だった江総は叔宝の側近として夜毎の酒宴に興じ、即位後は吏部尚書・尚書僕射に抜擢された。
  • 侍中毛喜は喪中の酒宴や淫靡な詩章を諫めようとしたが、叔宝の怒りを買い永嘉内史に左遷された。以後、諫言する者はいなくなった。

張麗華の寵愛

  • 皇后沈氏は望蔡侯沈君理の娘で、貞淑だが叔宝の意に添わず疎まれた。叔宝は龔・孔の二良娣を寵愛し、さらに龔氏の侍女であった張麗華(元は貧しい織席職人の娘)に溺れた。麗華は子・深を産み、叔宝の寵愛を独占した。
  • 即位後、麗華は貴妃、龔・孔は貴嬪に冊立され、沈皇后は後宮の実権を貴妃に譲り、静かに仏典を読んで過ごした。
  • 至徳2年、光照殿前に臨春・結綺・望仙の三閣が贅を尽くして築かれ、叔宝・張貴妃・龔孔二貴嬪がそれぞれ居住した。

狎客たちの宴と張麗華の専権

  • 江総ら十余人は「狎客」と呼ばれ、女学士とともに宴で詩歌を唱和し、艶麗な曲を作らせた(「玉樹後庭花」「臨春楽」等)。
  • 張麗華は容色に優れ聡明で、内事のみならず外政にも関与し、宦官を通じた上奏の裁断まで代行するようになった。内外に取り入り、後宮の不正も彼女の一言で揉み消される有様で、実権は事実上彼女に集中した。

佞臣による国政の腐敗

  • 都官尚書孔範、舎人施文慶が寵を得て権勢を振るい、施文慶が推挙した沈客卿・陽恵朗・徐哲・暨慧景らは苛斂誅求で財を集め、叔宝の土木事業の財源とした。
  • 孔範は武将を見下す発言をし、叔宝もこれを信じて将帥の兵権を奪うなどしたため、文武の心は離れ、亡国の兆しが現れた。

(詩:小人はみな女の惑わしから来る、玄妻が祭祀を覆したのも古来同じ悲しみ。臨春の三閣は今いずこ、空しく江東で焦土の話をするのみ)

叔宝は荒淫と驕奢を極め、隣国への挑発を続けていく。詳細は次回。

評語

  • 叔陵が兄を殺そうとした残忍さは、名教の罪人と言うべきだが、実は父の悪しき影響を受けたものである。父・陳主頊も兄の子を廃して殺しており、兄弟殺しに一歩近い所業であった。
  • 薬刀が鈍く一命を取り留めたことで、叔堅の助けを得て叔陵は逃げたが結局白楊道で命を落とし、叔宝は無事に即位できた。しかしその後、酒色に耽り骨肉を疎んじ婦人・宦官を寵愛し、ついに亡国に至った。陳主頊が子孫のために謀ったことが、かえって子孫を虜囚とする結果になったのは、天道の応報というべきである。
  • 張麗華は江南の妖艶な女で、北斉の馮小憐と似ており、小憐が斉を滅ぼし麗華が陳を滅ぼしたことは、古今東西を問わず美女が国に禍をもたらす例として一致する。