南北史演義第084回 行省を設け子を遣り師を督させ、敵兵を避け妃を携え井に投じる (設行省遣子督師 避敵兵攜妃投井)
後梁の滅亡
- 後梁主蕭巋は尉遅迥の乱に与せず柳荘の助言に従い、隋に恭順を保った。娘を晋王広の妃とするなど関係を深めたが、開皇5年に死去。子の琮が跡を継いだが、隋主は琮を朝に召し、その隙に江陵を郡県に編入し後梁を滅ぼした。琮は莒国公に封じられ長安に留め置かれた。後梁は蕭詧の称帝から3代33年で終わった。
陳への謀略と征討準備
- 高熲は「江北・江南の収穫期の差を利用して陳を疲弊させ、火計で穀倉を焼く」策を献じ、隋主はこれに従い陳を苦しめた。陳が蕭岩ら降人を受け入れたことに隋主は激怒し、南征を決意。戦艦を大量に建造し、堂々と準備を進めた。
- 陳主叔宝は政務を顧みず、諫言した中書舎人傅縡を殺す一方、江総・孔範ら佞臣を重用した。瑞祥の吉兆を喜び「禎明」と改元する一方、地震や不吉な異変が相次いだ。張貴妃らは沈皇后と皇太子胤を讒言で失脚させ、自らの子・深を太子に立てさせた。大市令章華の痛烈な諫言も聞き入れられず処刑された。
隋の南征開始
- 陳が峡州を侵したことを機に、隋主は南征の詔勅(陳叔宝の罪状を列挙する長文)を発し、淮南行省を設置。晋王広を行省尚書令とし、秦王俊・楊素らと共に総勢51万8千の大軍を9路に分けて進発させた。高熲・王韶が晋王広を補佐した。
- 薛道衡は「江東の四つの弱点(気運の衰え、君主の暗愚、宰相の無能、兵力の劣勢)」を挙げ必勝を説いた。
緒戦の展開
- 陳の周羅睺が長江防衛を担う中、楊素の水軍が三峡を突破し狼尾灘の陳将戚昕を撃破。楊素の威容に陳兵は「江神」と恐れをなして潰走した。
- 陳の護軍将軍樊毅は防備強化を進言したが、施文慶・沈客卿・孔範ら佞臣が「長江の天険で防げる」と楽観論を唱え、叔宝も対策を怠った。
建康陥落
- 禎明3年正月、賀若弼が広陵から、韓擒虎が横江からそれぞれ渡江し、沿江は次々に陥落。陳は慌てて防衛体制を敷いたが、施文慶が将帥の献策を握りつぶし続けた。
- 蕭摩訶は出陣に際し妻を人質同然に宮中に留め置かれ、叔宝はその妻に横恋慕して奪い、士気は崩壊。任忠の持久策も採用されず、陳軍の陣形は寸断されたまま隋軍に各個撃破された。
- 孔範は戦わずして敗走、蕭摩訶は捕虜となり、任忠は寝返って韓擒虎軍を都に引き入れた。台城は無防備となり、叔宝は袁憲の諫めを聞かず、張貴妃・孔貴嬪を連れて景陽殿の井戸に身を投げた。
陳の滅亡
- 隋軍が井戸から叔宝ら3人を引き上げた。太子深は従容として隋軍を迎え、魯広達は力戦の末に降伏。賀若弼は叔宝に「小国の君主は大国の上卿並みだ」と告げた。晋王広の命で高熲が善後処理に当たったが、張貴妃の助命要請を拒み「昔太公は妲己を斬った」として処刑した。
(詩:国が亡んだ時わが身も亡ぶはずが、刑に臨んでも美人を惜しんだ。眉目秀麗な姿も今は虚しい影となり、地下でかつての禍を悔いているだろうか)
晋王広は張麗華の死を知り、憤悶した。後事は次回。
評語
- 叔宝の悪行は宋の子業や斉の東昏侯宝巻ほど極端ではないが、艶妃を寵愛し、佞臣を寵み、諫臣を殺した点だけでも亡国に十分であり、まして三つを兼ね備えては亡びぬはずがない。
- 隋軍が渡江すると沿江の守りは総崩れとなったが、叔宝は敵が城下に迫っても蕭摩訶の妻と通じるほどの淫蕩ぶりで、亡国は必然であった。
- 景陽殿の井戸に妃を連れて身を投げたことも、そのまま命を落としていれば哀れみを誘う話にもなり得たが、生きて引き上げられ隋将に拝礼する醜態をさらし、張貴妃も刑死を免れなかった。妃妾たる者、君主たる者への戒めである。