南北史演義第六十回 建康を援け韋粲が軀を捐て、台城が陥り梁武帝が計を用いる (援建康韋粲捐軀 陷臺城梁武用計)
陳昕・范桃棒の内応未遂
- 捕らえられていた臨川太守陳昕は監視役の范桃棒を説得し、王偉・宋子仙暗殺と帰順を持ちかけさせた。梁主は喜び桃棒に河南王を約束したが、太子綱が策を疑って開城を許さなかった。結局桃棒の計画は露見して殺され、事情を知らぬまま出向いた陳昕も、侯景に射書を強要されて拒み、罵倒して殺された。
- 侯景は城内の奴僕にも降伏を呼びかけ、朱異の家奴などが応じて儀同三司などの官を得たため、多数の奴僕が城を脱して侯景軍に投じた。
建康の窮乏と各地の勤王軍
- 侯景軍も兵糧が尽きて略奪を始め、建康の民は餓死者が続出する惨状となった。偽帝の子見理は出撃中に流れ矢で死んだ。
- 湘東王繹をはじめ各地の刺史が檄に応じて勤王軍を発した。邵陵王綸は趙伯超の献策で鍾山経由の奇襲を試みたが、道に迷い後手に回り、侯景の反撃で天保寺を焼かれるなど大敗し、多数が凍死した。捕虜になった軍将霍俊は偽情報の唱和を拒み、偽帝正德の命で殺された。
- 封山侯蕭正表は兄正德に呼応して侯景に内通したが、廣陵令劉詢の夜襲で敗走した。
台城の攻防と羊侃の死
- 侯景は土山を築いて攻城を再開したが大雨で崩れ、羊侃の指揮で撃退。羊侃は過労で病を得て陣没し、城内の士気は動揺したが、材官吳景や柳津らの奮闘(地道による土山破壊など)で持ちこたえた。侯景は玄武湖の水を城内に引き込む水攻めに転じた。
韋粲の奮戦と柳仲禮の負傷
- 衡州刺史韋粲・司州刺史柳仲禮らの援軍が集結し、仲禮を大都督に推す際、裴之高との確執を粲が仲裁した。侯景は之高の親族を人質に降伏を迫ったが、之高は動じなかった。
- 韋粲は青塘の守備を託されたが、濃霧で行軍が遅れ布陣が整わぬうちに侯景の急襲を受け、弟・従弟・子とともに壮絶な討死を遂げた。柳仲禮は救援に駆けつけ侯景軍を退けたが、自身も負傷し以後は消極的になった。
籠城の窮迫と偽りの和議
- 台城は内外の連絡が絶たれ、朱異は民の怨嗟の中で病死した。紙鳶に勅を結んで飛ばす策も失敗したが、部吏李朗の苦肉の計で辛うじて外部との連絡が回復し、援軍が集結し始めた。しかし高州刺史李遷仕・天門太守樊文皎の援軍は侯景の伏兵にかかり文皎が戦死、以後諸軍は消極化し柳仲禮の傲慢な態度もあって足並みが乱れた。
- 兵糧・士気とも限界に達した侯景は王偉の献策で偽りの和議を持ちかけた。梁主は「和は死に勝らず」と一度拒んだが、太子綱の説得でやむなく許可、宣城王の身代わりに石城公大款を人質として送り、盟約の儀式を行った。しかし侯景は盟約後も囲みを解かず、様々な口実で撤退を引き延ばした。
侯景、盟約を破棄
- 侯景は援軍の弛緩と兵糧の目処が立ったのを見て、偽帝正德・王偉の勧めもあり盟約破棄を決意、梁主の「十の失政」を列挙する上奏文を送った(東魏との和平を破って侯景を受け入れた矛盾、蕭淵明ら無能な人選による渦陽の敗戦、和議への固執、羊鴉仁の懸瓠放棄不問、讒言を用いた不当な扱い、朱異ら佞臣の専横と収賄など)。
台城陥落
- 梁主は激怒して壇を設け侯景討伐を天に誓ったが、城中の兵は疲弊し守備兵は四千に満たなかった。柳仲禮は妓妾に耽り出撃を拒み、父柳津の叱責にも動じなかった。邵陵王綸も動かず、蕭駿の進言も容れられなかった。
- 南康王会理らの渡河作戦は羊鴉仁の背信と趙伯超の敗走で失敗し五千を失った。侯景の総攻撃の末、邵陵世子堅の怠慢もあって夜間に内通者の手引きで城壁が突破され、永安侯確が「城が陥落した」と梁主に報告した。梁主は「得失は天命、悔いはない」と泰然と応じ、確に外の父を慰めるよう命じた。
- 侯景は謝罪の体で武装兵を率い参内し、梁主の威に気圧されて満足に受け答えできなかった。梁主に「妻子は北方にいるか」と問われても答えられず、任約が代わりに「妻子は高氏に殺され、身一つで帰順した」と答えた。太子綱への謁見でも同様に萎縮した。
- しかし退出後、侯景は「戦場では恐れを知らぬ我が、蕭公の前では竦んでしまった、もう両宮には会えぬ」と言い放ち、以後は宮中に兵を入れて略奪し、朝臣を幽閉、矯詔で大赦を発し、自ら大都督中外諸軍事・録尚書事を称して実権を掌握した。
評語
(詩:猖獗する逆賊にすら和議を許し、平和を願う愚かさが禍の始まりは貪欲にあったと悔やんでも及ばぬ、との趣旨)
台城救援に来た諸軍の大半は凡庸で意志も定まらず、邵陵王は一敗で総崩れ、湘東方面も奮起は一時に終わった。主君の危難を前にしても保身を優先する将が多い中、韋粲・樊文皎の壮烈な戦死は際立つ。柳仲禮・裴之高も粲の激励で動いたが、之高は結局血戦せず、仲禮も負傷を機に及び腰となり、韋粲の死をもって主に殉じる覚悟とは大きな隔たりがあった。侯景が明白な叛賊でありながら和議を許し援軍撤退を勅したことは、賊を招き入れ自ら外援を断つに等しい愚策であった。梁主は「和は死に勝らず」と見抜いていながら最後まで一貫せず賊の計略に陥り、台城陥落後に威儀を保って景と対面したところで何の益もなく、「得失に恨みなし」との述懐もむなしく、梁はここに事実上滅亡した。