南北史演義第六十一回 梁宮を囲み君王が餓死し、湘州を攻め叔侄が仇を尋ねる (困梁宮君王餓死 攻湘州叔侄尋仇)
建康陥落後の諸将の去就
- 侯景は勅命を偽って援軍を解散させる。邵陵王蕭綸は柳仲禮に決断を委ねるが仲禮は答えず、裴之高・王僧辯らが決戦を迫っても黙したまま。結局諸軍は散り散りとなり、蕭綸は会稽へ逃れ、柳仲禮・羊鴉仁・王僧辯・趙伯超らは侯景に降る。柳仲禮は父の柳津にまで「お前はもう我が子ではない」と罵られる。
- 偽帝に立てられていた蕭正德は、侯景と結んだ約束(皇宮を保全する)を反故にされ、逆に侍中大司馬へ格下げされる。梁武帝に泣訴するが冷たくあしらわれ、失意のうちに退く。
- 侯景は臨江太守だった董紹先を使い、寡兵を装って南兗州刺史・南康王蕭会理を招く。会理は僚佐の反対を押し切り「勅命に背けない」と入城を許し、董紹先に軍勢を奪われた上、単身で都に召し出され、侯景の下で名ばかりの官に就く。
湘東王繹をめぐる叔侄の争い
- 湘東王蕭繹は武城に出陣したまま動かず、世子の方等も台城陥落を知って江陵へ引き返す。雍州刺史・岳陽王蕭詧と湘州刺史・河東王蕭誉はともに昭明太子の遺児で、以前から繹と確執があった。
- 雍州刺史の任を解かれた張纘が繹のもとへ逃げ込み、桂陽王蕭慥が河東・岳陽と内通していると讒言する。疑い深い繹はこれを信じ、江陵に戻るや慥を捕らえて自ら斬殺する。
- 繹は漢口の守将・劉方貴に襄陽襲撃を持ちかけるが、蕭詧に召還された方貴は樊城に拠って抗戦し敗死、樊城は蕭詧の手に落ちる。
- 事情を知らない張纘は雍州へ赴く途中で方貴の死を知り、そのまま蕭詧の元へ入るが、蕭詧配下の杜岸に騙されて出家に追い込まれ、監視下に置かれる。
- 梁武帝は侯景に抑圧され、宋子仙の登用や便殿主帥の要求をいずれも拒む。太子蕭綱の諫めにも「社稷に霊あれば必ず回復する」と突き放す。侯景配下は宮中を横行し、武帝は満足な食事も与えられぬまま病に伏し、太清三年五月、憤死同然に崩御する(在位四十八年)。
簡文帝即位と正德の粛清
- 侯景は喪を秘して太子綱を永福省に押し込め、党羽に監視させたのち即位させる(簡文帝)。北人の解放など恩赦を出させつつ実権は握ったまま。
- 王氏(簡皇后)の追諡、宣城王大器の立太子など人事を進める一方、侯景を除こうとした蕭正德の密謀が露見し、正德は絞殺される。
東南各地の攻防
- 侯景配下の于子悦・来亮・侯子鑒・宋子仙・李賢明らが呉郡・宛陵・呉興・宣城などを次々に攻略し、抗した太守らは処刑される。
- 侯景に反抗した永安侯蕭確は、暗殺を試みるも矢を外し捕らえられて斬られる。南徐州刺史蕭淵藻は解任の憤懣から絶食し落命する。
鄱陽王范の苦境
- 鄱陽王蕭范は東魏の圧力と侯景の攻勢の板挟みとなり、合州を割譲し二子を東魏に人質に出すも援軍は得られず、部下の裏切りにも遭って勢力を失い、江州の尋陽王大心を頼って身を寄せる。
湘東王繹と河東王誉の交戦
- 繹は密詔を得たと称して大都督を自称し、湘州の河東王誉に子を代刺史として送るが、誉軍に迎撃され世子方等が戦死する。
- 繹は方等の死を悲しむどころか無関心だった。背景には、繹の妃・徐氏との不和と徐妃の乱行があった(隻眼の繹を嘲る化粧、複数の男との密通など)。繹は徐妃の醜聞を公にし、王氏妃の死も徐妃の毒殺と疑って自尽させ、遺骸を辱める。
- 繹は王僧辯・鮑泉に河東王誉討伐を命じるが、僧辯が期限延長を求めたことに激怒し斬りつけて投獄、鮑泉のみで進撃させる。
- 鮑泉は誉を長沙に追い詰めるが、誉の求めに応じた岳陽王蕭詧が江陵を包囲。危機を悟った繹は僧辯を赦して都督に起用する。
- 蕭詧軍は長雨で消耗し、新興太守杜崱兄弟が繹に寝返る。杜岸は襄陽奇襲を試みるが失敗して捕らえられ、蕭詧は張纘を殺したうえ杜岸を凄惨な方法で処刑し、杜氏の祖墓まで暴く。
西魏の介入
- 繹は僧辯を河東王誉攻めに専念させ、柳仲禮を岳陽王蕭詧攻めに向かわせる。蕭詧は西魏に付庸を願い出て救援を求め、正妃と世子を人質に差し出す。
- 西魏の楊忠は伏兵を用いて柳仲禮を生け捕りにし、安陸・竟陵など漢東の地は次々西魏に降る。危機に陥った繹は舎人庾恪を派遣して交渉させ、石城を魏領、安陸を境とする盟約を結んで和議に至る。
- 邵陵王蕭綸は繹に停戦を説く書簡を送るが、繹は聞き入れず攻撃を続行。河東王誉は長沙で王僧辯に捕らえられ斬首される。誉は死の間際「讒言を為した者を暴いてほしい」と訴えるが聞き入れられなかった。
- 繹は長沙を落とすと梁武帝の喪を発し、侯景討伐の檄を発する。
評語
湘東・邵陵は皇子、河東・岳陽は皇孫でありながら、君父の危難を顧みず互いに争った。とりわけ湘東の不孝ぶりが甚だしく、援軍の発起人でありながら武城に逗留して進まなかった。河東・岳陽と湘東の間に本来深い遺恨はなかったのに、讒言によって骨肉の争いを起こし、叔侄の間で殺し合うに至ったのは、湘東の倒行逆施というほかない。邵陵は最初は勇み、後に怯んだが、書簡の内容は大局を思う情があり、湘東より優れている。河東の死は湘東の讒構に発するものであり、桂陽王慥の横死はその中でも最も理不尽なものであった。