南北史演義第五十八回 高澄が悍く東魏主を殴禁し、慕容紹宗が智謀で蕭淵明を擒える (悍高澄毆禁東魏主 智慕容計擒蕭淵明)

梁主、侯景の帰順を受け入れる

  • 太清元年正月、梁主蕭衍は中原の牧守が服属する吉夢を見たと中書舎人朱異に語り、朱異は「これぞ天下統一の兆し」と諛った。侯景の帰順話が出た際、群臣が反対する中、朱異だけが夢の話を持ち出して受け入れを説き、梁主もこれに従った。
  • 梁主は侯景を大将軍・河南王・都督河南北諸軍事に任じ、司州刺史羊鴉仁ら三万を懸瓠へ派遣し呼応させた。占候に長けた周弘正は「これで乱の端緒が開く」と憂えた。

東魏の対侯景戦・高澄の入朝

  • 高澄は韓軌に討伐を命じる一方、自ら鄴に入り東魏主善見に謁見、宴で酔って舞うなど父の生前さながらに振る舞った。派遣した元柱の軍は侯景の伏兵に大敗、侯景は潁川に退いて守った。
  • 韓軌が潁川を包囲すると、侯景は西魏にも援助を求めて城を割譲すると申し出た。西魏では意見が割れたが、王思政の進言で荊州兵を出し、宇文泰も李弼・趙貴らを援軍に送った。韓軌はこれを見て撤退した。

侯景、去就に窮する

  • 侯景は西魏にも二心を疑われ、また梁にも東魏にも通じる二枚舌の動きを見せた。西魏の裴寬は「侯景は表面は恭しいが内実は姦計を抱いている」と警告し、韋法保・王思政ともに侯景を信用せず備えを固めた。
  • 侯景は最終的に西魏との関係を絶ち梁への帰順を決意、西魏は与えていた官職を王思政に振り替えた。

梁の北伐発動

  • 梁は懸瓠を豫州、寿春を南豫州、合肥を司州と改称し防備を固め、鄱陽王蕭範を推す声を朱異が妨げ、代わりに貞陽侯蕭淵明と豫章王会理が北伐軍を率いることになった。両者は不仲で、会理は淵明に非礼を働き、朱異の取り計らいで会理は召還された。酷暑の中、軍は遅々として進まなかった。

高歓の死去公表と高澄の権力継承

  • 高澄は晋陽に戻ってようやく父高歓の喪を発した。東魏主は歓に相国・斉王を追贈し「献武」と諡し、高澄が大丞相・都督中外諸軍事・勃海王を継いだ。
  • 柔然の禿突佳は帰国を望んだが、高澄は柔然の風習(子が継母を娶る)を口実に、亡父の妻となった柔然公主を自らの妻とすることを禿突佳経由で持ちかけ、公主もこれに応じて高澄と結ばれた。禿突佳は厚く贈り物を受けて帰国した。

高澄、東魏主を殴打・幽閉

  • 東魏主善見は文武に優れ、高歓の存命中は敬われていたが、高澄が実権を握ると態度が一変し、黄門侍郎崔季舒に宮中を監視させた。善見が不満を漏らすと、高澄は激怒して入朝し、酒席で無理に酒を勧め、拒む善見に「陛下、朕とは何だ、犬の足の朕め」と罵り、崔季舒に命じて善見を三度殴打させた。
  • 翌日謝罪の使者を送るなど体裁は繕われたが、これを見た侍講荀済は元瑾ら数名と共に高澄暗殺を企て、地下道を掘って澄の邸へ通じさせようとした。
  • 計画は発覚し、澄は兵を率いて宮中に入り、善見を「謀反の意図があるのか」と詰問。善見は「臣が君に背く話は聞くが君が臣に背く話は聞かぬ」と気丈に応じ、澄は一時跪いて泣いて謝罪したものの、翌日には荀済らを捕らえて処刑(荀済は焼死)、善見を含章堂に軟禁して監視をつけた。温子昇も連座を疑われ幽閉の末に獄死した。

慕容紹宗の起用と侯景の警戒

  • 彭城が梁軍に攻められているとの急報を受け、高澄は高岳を派遣する際、行台丞陳元康の進言と亡父の遺命により慕容紹宗を東南道行台として同行させた。
  • 侯景はこれを聞いて「高歓はもう死んだはずなのに、なぜ紹宗が出てくるのか」と恐れ、梁の蕭淵明に「紹宗に勝っても深追いするな」と忠告した。

寒山の戦い、蕭淵明の敗北

  • 蕭淵明は彭城近くの寒山に駐屯し、羊侃に泗水の堰を築かせて水攻めの準備を進めたが、慕容紹宗の来援を知り決断できず出撃をためらった。
  • 紹宗の攻撃が始まっても淵明は泥酔して戦況を把握せず、北兗州刺史胡貴孫の奮戦で一時東魏軍が退くと、淵明は侯景の忠告を忘れて深追いし、紹宗の挟撃にあって梁軍は総崩れとなった。淵明自身も捕らえられ、胡貴孫も負傷して捕虜となり、数万の兵を失った。羊侃だけは整然と退却し損害を出さなかった。

梁主の動揺と東魏の檄文

  • 敗報を受けた梁主は動揺し「私もまた東晋の轍を踏むのか」と嘆いた。東魏(杜弼起草)は梁への檄文を発し、侯景の背信と梁主の老耄・失政を痛烈に非難し、江南征討の意志を示した。
  • それでも梁主は考えを改めず、侯景をますます頼みとし、侯景の要請で元貞(咸陽王の孫)を「魏主」に擁立して北へ送り出した。

侯景対慕容紹宗、渦陽の攻防

  • 慕容紹宗はさらに侯景を渦陽まで追い、緒戦では侯景の短甲・短刀の兵に翻弄され自らも落馬する苦戦を強いられた。副将の斛律光・張恃顕らも紹宗の指揮を批判して再戦を挑むが、逆に侯景に敗れ捕虜まで出す始末だった。
  • 紹宗は「侯景ほど狡猾な敵はこれまで見たことがない」と諭し、以後は深い塹壕と堅塁で持久戦に徹する策に転じた。

評語

(詩:善戦より善謀が勝る、堅城と塹壕を頼みに持久すれば、いかに敵が奇技を持とうと最後には劣ることを歎じる趣旨)

高歓は君主を廃立しながらも表向きは臣下の礼を尽くす虚飾を保ったが、その子高澄は君主を殴打し幽閉して憚らず、狡猾さは父に勝り凶暴さも父を超えた。高歓は死してなお侯景の脅威を見抜き手を打ったが、梁主蕭衍は生きているうちに侯景の本性を見抜けなかった。檄文にある「年老いてなお耄碌した」との評は梁主そのものであり、甥の蕭淵明を誤って起用して全軍を失ったことは、その昏迷ぶりを如実に示しており、後の台城での窮死も無理からぬことであった。