南北史演義第五十七回 賀琛を責め梁廷が勅を草し、侯景を防ぎ高氏が言を留める (責賀琛梁廷草敕 防侯景高氏留言)
何敬容の失脚と賀琛の上書
- 太子蕭綱は道教を好み玄圃で老荘を講じ、尚書令何敬容は「西晋滅亡の原因である玄虚の風潮が東宮にも見える」と漏らしたことが太子の耳に入り恨まれた。後に妾の弟の不正が発覚した際、太子側への取りなしが裏目に出て梁主の怒りを買い除名された。
- 何敬容失脚後、朱異が専権をふるい朝政を乱したため、散騎常侍賀琛が上書して四点を諫言した。
- 地方の戸口減少と苛斂誅求により民が流亡している実情
- 官吏の奢侈・饗宴の浪費が貪汚を招いている風潮
- 側近が些末な瑕疵を挙げて権威を笠に着る弊害
- 無用な事業・徴発を省き財と民力を蓄えるべきこと
梁主の逆ギレと賀琛の沈黙
- 武帝はこれを読んで激怒し、侍臣に勅を口授して賀琛を詰問させた。「貪官の名を具体的に挙げよ」「朕は三十年女色を絶ち酒も音楽も断ち質素に努めている、捨本逐末の空論だ」「奏事を止めれば趙高・王莽の再来になる」「省くべき事業を具体的に示せ」と逐一反論し、賀琛は畏縮して謝罪の表を出すのみで、それ以上何も言えなくなった。
武帝の仏教への耽溺の継続
- 大同十二年、武帝は同泰寺で三慧経を一月にわたり講じ、大赦・改元(中大同)を行った。その夜、同泰寺が火災に遭って浮図が焼失すると「これぞ魔劫」と嘆き、さらに大規模な十二層の浮図の再建を命じた。
- 武帝は八十を超えてなお仏典に耽り、政務への意欲を失っていった。
諸子の確執
- 皇太子は定まっていたが、嫡孫ではなく庶子が立てられたため、資格の近い諸王子はみな帝位を狙い東宮を猜忌した。
- 第六子邵陵王綸は僭越な振る舞いで民の恨みを買い、府丞何智通の上奏に対し刺客を放って暗殺、一時庶人に落とされたが後にすぐ復封され、太子綱の要請で南徐州刺史に転出させられた。
- 庐陵王続(荊州)、湘東王繹(江州)、武陵王紀(益州)ら他の諸王も各地で権勢をほしいままにし、太子綱は不安から精鋭を選び自衛を固めた。
- 武帝は昭明太子の遺児(河東王誉、岳陽王詧)にも厚遇を与えたが、岳陽王詧は特に襄陽の要害に着目し兵を蓄えて備えていた。庐陵王続の死後、湘東王繹が荊州へ移り喜んだ。
侯景離反の遠因(東魏側)
- 東魏では高歡が邙山の戦後、数年静養し、武定と改元。柔然との縁組交渉では、当初世子澄への降嫁を求めたが、柔然側が高歡自身への降嫁を主張したため、歡は迷ったが妻婁妃の「国のためなら」との勧めで柔然公主を娶った。
- 柔然公主は騎射に長け、婁妃は正室を譲って歓待、歓は感激して婁妃に拝謝したが婁妃は笑って辞退した。妾の大爾朱氏はこれを機に出家を望み、歓は寺を建てて修行させた。
- 柔然側の兄禿突佳が「外孫誕生まで帰国せぬ」と居座り、老いた高歓に夜毎迫ったため、歓は体調を崩し、ついに西魏出兵を口実に難を逃れようとした。
玉璧攻防戦
- 西魏の韋孝寬が玉璧を守り、高歓の猛攻(水攻め、土山、地道、火計、攻車)をことごとく防ぎきった。孝寬は夜襲で土山も奪還した。
- 歓は参軍祖珽を遣わし降伏を勧告したが孝寬は拒絶、逆に「高歓を斬った者には賞格を与える」と射返した。五十日の攻城で死者七万を数えても落とせず、歓自身も持病が悪化、流星の出現に将兵が動揺し、ついに囲みを解いて撤退した。
- 「高歓は孝寬の矢に斃れた」との噂が広まる中、歓は敕勒歌を斛律金に歌わせ自らも唱和して涙した。
高歓の死と遺言
- 武定五年正月、日食が起こると歓は「これは我が身に応じるものか」と嘆き、次子高洋を鄴に、世子澄を晋陽に呼び寄せた。
- 澄が河南(侯景)を懸念すると、歓は「侯景は十四年河南に君臨し、私だけが御しえた。私の死後は喪を秘し、庫狄乾・斛律金は信頼できる、可朱渾元・劉豐生も裏切らぬ、韓軌は多少愚直だが咎めるな、彭樂は軽率ゆえ警戒せよ。侯景に対抗できるのは慕容紹宗のみ、これまで重用しなかったのはお前のために残したためだ、厚く用いよ」「軍事の大事は段韶(孝先)に相談せよ」と細かく遺言し、その夜、五十二歳で没した。
侯景の離反
- 澄は遺命に従い喪を秘し、歓の名で侯景を晋陽へ召そうとした。歓と侯景の間には「本物の書には必ず微点を付ける」という暗号の取り決めがあったが、澄はこれを知らず点なしで書を送ったため、侯景は不審に思い出頭を拒み、密かに晋陽の様子を探らせた。
- 歓の死と澄の掌握を知った侯景は西魏に寝返り、河南全土を献じると通じた。西魏は侯景を太傅・河南大行台・上谷公に封じた。侯景は豫州・襄州・広州の刺史らを謀って捕らえ、西兗州への夜襲も刺史邢子才に察知され失敗した。高澄は韓軌に討伐を命じた。
侯景、梁へ寝返る
- 関陝方面が塞がれることを恐れた侯景は、南の梁へ帰順を申し出て、河南十三州を献じる旨の表を送った。
- 梁の朝議では尚書僕射謝挙が「東魏との和平を破ることになる」と反対したが、武帝は「好機を逃せぬ」と受け入れを決意。ある臣が「天が与えるものを取らねば咎めを受ける、これは陛下の吉夢が示した混一の兆しだ」と賛意を述べ、武帝も自らの夢に絡めてこれに同意した。
評語
(詩:豎牛が夢に入り叔孫が滅んだ故事になぞらえ、経伝に精通しながらも夢占いに惑わされ自ら禍を招いたことを歎く趣旨)
賀琛の上書は四条いずれも理があったが、武帝は自らの節倹を誇り、逆に琛へ具体的な指摘を迫って黙らせてしまった。君主が明でなければ臣は直言を貫けぬのも当然で、琛のみを責められない。ただし琛も武帝の佞仏や皇子の教育の乱れには触れておらず、本質を突けていなかった。高歓は五十にして柔然公主を娶るなど老いてなお漁色に耽り、玉璧包囲が五十日も落ちなかったのも、韋孝寬の善守だけでなく高歓自身の気力衰退による面が大きい。それでも死の間際まで侯景の脅威を見抜き慕容紹宗を託した判断力は、乱世の雄たる所以であろう。