南北史演義第三十六回 江夏王が叛に通じ亡身し、潘貴妃が入宮し寵を専らにする (江夏王通叛亡身 潘貴妃入宮專寵)

陳顕達の挙兵と戦死

  • 陳顕達は建康攻撃を決意し、長史の庾弘遠・司馬の徐虎龍を通じ、朝廷の重臣たちへ檄文を送る。内容は斉の建国から寶卷の代までの経緯を振り返り、寶卷の淫乱・忠臣殺害を弾劾し、建安王を新たな主に迎えるべきだと呼びかけるもの。
  • 朝廷は崔慧景を平南将軍として迎撃に当たらせ、胡鬆・李叔獻・左興盛らを各方面に配置。
  • 顕達は彩石で胡鬆を破り新林へ進むが、左興盛の陣を陽動しつつ夜に軽舟で都へ潜行、逆風に阻まれ夜明けに落星岡へ上陸。守備軍と激戦、73歳ながら奮戦し数十人を刺し倒すが、槊を折り、劣勢となって西州へ退く。追撃してきた騎将趙潭に槊で刺され落命。
  • 息子たちは捕らえられ処刑され、庾弘遠も捕縛。刑に臨み冠を求め「子路が纓を結んだ故事のように、冠なくして死ねぬ」と述べ、陳顕達の性急さを諫めていたことを語る。幼い息子の子曜(14歳)も父を庇おうとして共に殺された。

裴叔業の北魏投降

  • 豫州刺史裴叔業は、朝廷が相次いで大臣を誅殺するのを恐れ、内徙の命にも従わずにいた。甥の裴植も身の危険を感じ壽陽へ逃れる。
  • 叔業は蕭衍に使者を送り身の振り方を相談。蕭衍は「家族を人質として都に送り、いざという時は横江から退路を断てば大事は定まる」と助言。
  • 叔業は子の芬之を人質に建康へ送るが、その後北魏の豫州刺史薛真度と文通を重ね、早期降伏を勧められる。都で叛意の噂が立ち、芬之は逃げ帰って壽陽へ戻り、叔業は北魏へ正式に降伏。魏主は彭城王勰を壽陽に派遣し、叔業を蘭陵郡公・豫州刺史に封じた。
  • 斉朝は討伐軍を発し、崔慧景を派遣。寶卷自ら見送り、慧景を城壁上に招いて言葉を交わす。あわせて蕭懿にも豫州刺史として西討を命じた。

崔慧景の挙兵

  • 慧景は出征前から叛意を抱き、子の崔覚と密約。広陵で諸将を集め「幼主は昏乱、朝廷は濁乱している。今こそ社稷のために立ち上がるべき」と涙ながらに訴え、賛同を得る。
  • 広陵を接収した慧景は、江夏王寶玄を主に擁立しようと使者を送るが、寶玄は表向き使者を斬り拒絶。実際は密かに慧景と通じ、台軍を誘い込む策だった。
  • 寶玄の元へ派遣された戚平・黄林夫は、密談の末に意見が合わず寶玄に斬られる。司馬孔矜・典簽呂承緒が「殿下は謀反した」と叫んだため、二人も殺害された。

建康包囲と慧景の迷走

  • 慧景は京口で寶玄に迎え入れられ、自ら軍を率いて建康へ進軍。前鋒の崔恭祖が竹裡で朝廷軍を破り、蔣山の守りも山頂からの奇襲で突破。左興盛は敗走の末に捕らえられ殺される。都の外郭諸城は次々と陥落。
  • 慧景は宣德太后の名を騙り、寶卷を廃して呉王とする詔を出すが、寶玄擁立の件はうやむやにし、代わりに竟陵王の子・昭冑を担ごうかと迷い続ける。
  • 恭祖と崔覚が竹裡の戦功を巡って対立、慧景は我が子の覚を庇う。恭祖が提案した火攻め策も慧景に却下され、恭祖は不満を募らせる。慧景は仏教談義に耽り悠然としており、恭祖は「参禅している場合か」と嘆く。

蕭懿の来援と慧景の最期

  • 豫州刺史蕭懿は西討の途上、都からの急使で引き返し、彩石を渡って建康入城。崔覚が迎え撃つが、蕭懿は前進する者に賞、退く者は斬ると軍令を敷き、崔覚軍は大敗。
  • 敗走した崔覚は、恭祖が奪った女性たちを横取りしたため、恭祖は激怒し劉靈運と共に朝廷側へ投降。慧景軍は瓦解し、慧景は少数の側近と共に脱出を図るが、蟹浦で漁師に見咎められ殺され、首級は建康に送られた。
  • 崔覚は道士に扮して逃亡するも後に捕らえられ処刑。崔恭祖も投降した経緯を問題視され、結局処刑された。江夏王寶玄は数日潜伏の後に自首、寶卷は宮中で寶玄を辱めた末に毒殺した。

乱後の寶卷の統治

  • 反乱に加担した者の名簿が押収されたが、寶卷はこれを見ずに焼却させ、大赦を発して不問に付す(寶卷の治世で数少ない善政と評される)。ただし小人たちは詔に従わず、富裕な民を賊党と偽って財産を奪う不正を働いた。
  • 権勢を握った徐世繩が同僚に「寶卷は暴虐すぎて長続きしまい」と漏らしたことが密告され、寶卷に誅殺される。以後、茹法珍・梅蟲兒が外監として実権を握り、専横を極めた。
  • 寶卷は昼夜を問わず遊興・狩猟にふけり、外出のたびに沿道の民を強制退去させた。妊婦の腹を割いて胎児を検分させたり、隠れていた老僧を射殺するなど、常軌を逸した振る舞いが続いた。

潘貴妃の専寵

  • 皇后褚氏は疎まれ、寵愛を得た黄淑媛(皇太子誦の母)も早世。茹法珍・梅蟲兒が選んだ美女の中でも、元は王敬則の営妓であった潘氏が抜群の美貌で寶卷の寵愛を独占し、妃から貴妃へと昇る。
  • 潘氏は際限なく贅を尽くし、金銀財宝を惜しみなく費やし、民間からも高値で買い集めさせた。寶卷は外出時に潘妃の輿を先導させ、自らは後から馬で従うなど、主客が逆転した寵愛ぶりを見せた。
  • 潘氏の父・寶慶や茹法珍・梅蟲兒・俞靈韻を「丈」「兄」と呼んで馴れ合い、宦官の少年王寶孫も寵愛を受けて政治にまで口出しするようになった。

宮中火災と芳楽殿の造営

  • 永光二年八月、寶卷が潘妃らと夜遊びに出ている間に宮中で火災が発生し、三千余間が焼失。
  • 側近の趙鬼の進言を受け、寶卷は芳楽殿・玉壽殿などを麝香で壁を塗るほど贅を尽くして造営させ、仏寺から玉石の像を運び込んで飾りにした。床には金の蓮花を敷き詰め、潘妃を歩かせては「歩くたびに蓮花が咲く」と悦に入った。(詩:金の蓮花に浮かれる暗君を風刺し、亡国の禍は暗君自身が招くものだと詠む)

評語

  • 陳顕達・崔慧景の挙兵がいずれも成就しなかったのは、寶卷の悪がまだ極まっていなかったため。史書がこの二人の挙兵を「叛」と書かず、その死も「誅」と書かないのは、二人を許したのではなく寶卷を憎むがゆえの筆法である。
  • 江夏王寶玄には器量も勇気もなく、慧景に頼って帝位を望んだにすぎない。
  • 裴叔業が斉を裏切り魏に降ったことは、陳顕達・崔慧景よりもさらに卑劣であり、蕭衍に見下されたのも当然である。
  • 寶卷の悪行は数え切れないが、その罪を潘貴妃一人に帰すのは適切でない。ただし君主の聡明を惑わす存在として、桀・紂における妹喜・妲己と同じ位置づけで語られるのである。