南北史演義第035回 密謀が洩れ二江が授首され、主の忌に遭い六貴が相次いで誅される (洩密謀二江授首 遭主忌六貴洊誅)
馮后の最期と魏の政局
- 馮后は毒薬を拒み逃げようとしたが内侍に取り押さえられ服毒死。咸陽王禧らは「遺詔がなくとも除くつもりだった」と話した。魏主恪は后の礼で葬り幽皇后と諡した。
- 彭城王勰が司徒として国事を摂行し、孝文帝を長陵に葬り、生母高氏を文昭皇后に追尊。侍中崔光がかつて馮氏一族の栄華の衰えを予言していた通り、馮氏は没落し高氏一族が代わって栄達した。
蕭衍・蕭懿兄弟の思案
- 齊主寶卷の即位前後、蕭懿は益州刺史、蕭衍は雍州刺史であった。蕭衍は「六貴同朝」の危うさを見抜き、従舅張弘策と共に武備を整え、竹木を伐り兵を募った(中兵参軍呂僧珍も密かに櫓を準備)。
- 蕭衍は兄懿(当時郢州)に、六貴の相克と寶卷の暗愚を理由に西へ集結し自衛を図るよう説得したが、懿は「忠君のみを知る」と応じなかった。蕭衍は諸弟を襄陽に呼び寄せ朝廷の動静を待つことにした。
江祏・江祀兄弟の誅殺
- 永元改元から半年、輔政の「六貴」のうち江祏・江祀兄弟(蕭鸞の生母景皇后の甥)が誅殺された。二人は佐命の功臣として重んじられたが、江祏は寶卷の不行状を諫め、寵臣茹法珍・梅蟲兒に疎まれていた。
- 江祏は寶卷廃立を企て江夏王寶玄擁立を図るが、劉暄は建安王寶夤を推し対立。蕭遙光は自らの野心から長君擁立を口実に江夏王案を退けさせ、江祏を迷わせた。
- 蕭坦之は遙光擁立に反対し関与を避けた。吏部郎謝朓も誘われたが煮え切らない態度を取り、密謀を左興盛・劉暄に漏らしたため、遙光と江祏は謝朓を捕らえて処刑した。謝朓は獄中で「我雖不殺王公、王公由我而死」(前回の王敬則の件を指す)と嘆き自ら首をくくった。
- 劉暄は遙光擁立が自らの立場を損なうと悟り翻意。遙光の刺客に襲われかけたことで江祏兄弟の罪状を寶卷に密告し、両名は捕らえられて処刑された(江祏は恩賞を拒否された恨みを持つ直閤袁文曠に襲われた末に斬られた)。
寶卷の放埓と江祏一族の粛清
- 江祏死後、寶卷はますます遊興にふけり、奏事も何十日も放置し宦官に魚肉の包み紙にされる有様であった。江祏の疎族江祥にまで死を命じるなど、一族は根絶やしにされた。
蕭遙光の挙兵と敗死
- 弟遙昌・遙欣の相次ぐ病死で孤立した蕭遙光は、寶卷の疑いを避けようと病と称して政務を避けていたが、揚州刺史職を解かれる動きを察し挙兵を決意。
- 東冶の囚人を解放し武器を集め、劉渢・劉晏と謀って蕭坦之・沈文季の襲撃を図るが失敗。垣歷生の進言(即時攻撃)を聞かず躊躇し好機を逃した。
- 徐孝嗣・蕭坦之・左興盛・曹虎ら台軍に東府を包囲され、参軍蕭暢・長史沈昭略の寝返りで戦意を失う。垣歷生も曹虎軍に降ろうとして梟首され、遙光は妻子と共に焼け落ちる東府で自害同然に討たれた(劉渢・劉晏も処刑)。
蕭坦之・劉暄・曹虎の粛清
- 乱後、徐孝嗣・沈文季・蕭坦之・劉暄・曹虎らが加官されたが、蕭坦之は驕慢を茹法珍らに讒言され自殺を強いられた(従兄翼宗の助命は聞き入れられたが、家財はほぼ無かった)。
- 劉暄も「舅であること」を理由に寶卷が庇おうとしたが、直閤徐世標の讒言で処刑。曹虎も多額の蓄財を理由に処刑され財産は没収された。三人はいずれも新任官職を拝命する間もなく一族滅亡に至った。
徐孝嗣・沈文季・沈昭略の死
- 徐孝嗣は文人肌で温和な人柄から長く生き延びたが、中郎将許準の廃立進言には慎重を期し実行しなかった。沈文季も老病を口実に政治から距離を置いていた。
- 両名と沈文季の甥沈昭略は華林省に呼び出され、茹法珍から毒酒を賜り処刑された。昭略は徐孝嗣を「宰相無才」と罵倒して盃を投げつけ絶命、文季・孝嗣も服毒した。孝嗣の子や娘婿らも連座で誅殺され、昭略の弟昭光・甥曇亮も後追いで死んだ。
陳顯達の挙兵準備
- 六貴のうち生き残ったのは太尉陳顯達のみとなった。顯達は高帝・武帝以来の宿将で慎重に振る舞い蕭鸞の代から自らを控えめにしていたが、対魏戦での敗北の責を問われながらも寶卷に厚遇され江州刺史に任じられていた。
- 朝廷での粛清が続く中、江州襲撃の噂を聞いた顯達は長史庾弘遠・司馬徐虎龍と謀り、建安王寶夤を主に擁立して挙兵することを決意した。
(詩:尋陽での挙兵は寶卷の暗愚が招いた乱であり、その是非の評価は後世の史筆に委ねられるとする内容)
評語
- 六貴が同朝して各々敕を私物化したことが最大の禍根であり、蕭衍の見立ては正しかった。ただし六人の優劣は同じではない。蕭遙光は蕭鸞をそそのかして骨肉を殺させた最も狡猾で悪辣な人物であり、江祏・江祀は廃立を企てて遙光に与した点で次に重い罪がある。劉暄も節操のなさから無罪とは言えない。
- 一方、蕭坦之・徐孝嗣・沈文季の三人は遙光討伐に功があり、坦之が驕慢であったとしても明確な罪状はなく、孝嗣・文季に至っては罪と呼べるものは何もなかった。世に寶卷の乱殺が亡国を招いたと言うが、罪なき者は誅すべきでなく、罪ある者もまた誅せられて当然というわけではない、という事実を見誤ってはならない。寶卷の亡国の原因は、まさにこの理非を弁えぬ粛清そのものにあったのである。