南北史演義第034回 斉の嗣主が喪に臨み禿鶖を笑い、魏の淫后が涕を流し巫蠱を陳べる (齊嗣主臨喪笑禿鶖 魏淫後流涕陳巫蠱)
南康侯子恪の九死一生
- 南康侯子恪は敬則との謀議には無関係だったが、高武子孫皆殺しの噂を聞き、命がけで宮中に駆け込み訴えた。折よく蕭鸞に取り次がれ、蕭鸞は「遙光幾誤人事」と嘆いて処刑を止め、高武の子孫は救われた。子恪は太子中庶子に任じられた。
王敬則の乱と敗死
- 王敬則は浙江で挙兵し十万の兵で武進の皇陵付近まで迫ったが、左興盛・崔恭祖・劉山陽・胡鬆らの防戦と沈文季の統率により撃破された。
- 敬則は落馬したところを崔恭祖に脇腹を刺され、袁文曠にとどめを刺されて死亡。子らも捕らえられ処刑、家産は没収された。
- 敬則はもともと蕭道成の簒奪を助けた功で栄達したが、天道は善悪に報いるとされ、末路は悲惨であった。密告した謝朓は擢用されたが、妻から恨まれ刃物を隠し持たれるなど苦い立場に立たされた。
蕭鸞の死と寶卷の即位
- その年七月、蕭鸞は四十七歳で死去。遺詔で徐孝嗣らに政務を託し、太子寶卷には「作事不可落人後」とだけ言い残した。この一言が後に寶卷が佞臣を重用し混乱を招く伏線となる。
- 寶卷は即位し蕭鸞を明皇帝(廟号高宗)と諡した。蕭鸞は在位五年、猜疑深く巫術を好み、宮中の後湖を塞ごうとするなど迷信的な振る舞いが多かった。倹約の逸話も伝わるが、評者はこれを些末な美談に過ぎないとする。
寶卷の放埓
- 寶卷は幼少より学問を好まず遊興を好んだ。即位後も政務を顧みず宦官・宮妾と戯れ、父の葬儀を急ぎ済ませようとし、徐孝嗣の諫めでようやく一月延ばして興安陵に葬った。
- 喪の場でも哀しむ様子がなく、大中大夫羊闡が号泣し冠を落として禿頭を露わにした姿を見て「禿鶖啼来了」と大笑いする始末であった。
- 側近の寵臣らが敕を私物化し「刀敕」と呼ばれる混乱状態となり、朝令暮改で綱紀が乱れていった。
魏主宏の北帰の裏事情
- 魏主宏は齊主の喪に乗じないとの名分で北帰したが、実際には三つの事情があった。第一に洛陽留守の李衝が李彪との不和で憤死し留守が手薄になったこと。第二に高車国の反乱(袁紇樹者を主に擁立)平定が難航したこと。第三に宮中の醜聞であった。
馮皇后の不倫と厭禳
- 馮皇后(旧昭儀)は魏主の長期南征で寂しさを募らせ、宦官を装った偽宦官高菩薩と密通、雙蒙らを腹心として不倫関係を重ねた。
- 魏主の娘彭城公主が再婚を嫌って懸瓠まで駆けつけ、馮后の不貞を告発。魏主は病を発しつつ真偽を確かめることにした。
- 彭城王勰の祈願もあって魏主は快復し、鄴で越冬。翌年(太和二十三年、齊永元元年)洛陽に戻り高菩薩・雙蒙を尋問、馮后が母常氏を通じ巫女に魏主の早死を祈らせ厭禳を行っていたことも発覚した。
馮皇后の処断
- 魏主は馮后を詰問し、小刀を隠し持っていたことも発覚。侍女白整の耳を綿で塞いで密談を遮り、后自身の口から不貞を白状させた。魏主は激怒しつつも、文明太后への旧恩から后を即座に廃死とはせず、太子恪との対面を絶つ程度に留めた。
- 後日、后が横柄な態度を取ったため魏主はさらに激怒し、母常氏を呼んで叱責、常氏は后を鞭打って弁明したが、廃后の詔はなかなか下されなかった。
魏主宏の病没
- 齊の陳顯達・崔慧景が雍州奪還に動き魏軍を破ったが、魏主は病を押して出陣し逆転勝利。しかし過労で病状は悪化し、彭城王勰が昼夜看病にあたった。
- 谷塘原で危篤となった魏主は勰に後事を託そうとしたが、勰は権勢が過ぎることへの懸念から固辞。魏主はやむなく勰の望み(引退の許可)を文書に記し、また北海王詳・王肅・広陽王嘉・宋弁・咸陽王禧・任城王澄らに輔政を託す詔を口述した。
- 臨終間際、魏主は馮后について「自尽させ、后の礼で葬るように」と勰に命じ、まもなく三十三歳で崩じた。
太子恪の即位と馮后の最期
- 彭城王勰は齊軍がまだ近くにいることを警戒し、しばらく喪を秘して太子恪を魯陽に呼び寄せ、対面後に葬儀を行い恪を即位させた。
- 咸陽王禧は当初勰を疑ったが、誠実な対応に疑念を解いた。恪は即位後、遺詔に従い北海王詳・白整らに命じ馮后に毒を賜った。后は抵抗したが強制的に飲まされた(結末は次回)。
(詩:寵愛が驕りを生み、別宮での死も遅すぎたとし、この醜聞が北朝の恥として史書に残ることを嘆く内容)
評語
- 蕭鸞は生涯を通じて凶詐であったが、その嗣子寶卷は狂愚であった。拓跋宏(魏主宏)は英敏であったが、その妃は淫悪であった。身が正しくなければ妻子にも及ばぬというが、蕭鸞の不徳がこの子を生んだのも当然であろう。
- 魏主宏は文武に優れながら一人の婦人を制御できず、偽宦官との密通や厭禳、ついには刃物での企てまで許してしまった。好妒の女は淫を好み、好淫の女は悍しいものである。魏主が文明太后への私恩に拘泥し早々に断罪しなかったことは、文明太后自身の殺父の仇すら報いなかった経緯を思えば当然の帰結ともいえる。谷塘原で安らかに首級を保って没したのは、むしろ幸運であったというべきだろう。兇詐な者は子孫に良い遺産を残せず、英敏な者もまた真に治世を全うできるとは限らないことがここに示される。