明史演義第七十四回 王宮人、喜んで子を生む/張宰輔、身後家を籍せらる (王宮人喜中生子  張宰輔身後籍家)

神宗と王宮人の密事

  • 神宗は慈寧宮で宮女の王氏を見初め、盥の水を運ばせるうちに情を通じてしまう。
  • 王氏は身重となるが、神宗は気まずさから距離を置き、太后に気づかれぬよう隠していた。
  • 記録係の宦官が神宗の行状を日々記帳しており、証拠が残っていた。

太后の詰問と冊封

  • 李太后は王氏の懐妊に気づき、本人を問い詰めて経緯を知る。
  • 宴席で李太后が起居簿録を突きつけると、神宗は言い逃れできず認める。
  • 李太后は「子を得れば母も貴くなる」と諭し、王氏を恭妃に冊封させる。
  • 王氏はやがて男児(皇長子・常洛、後の光宗)を出産し、朝廷は慶事として大赦・両太后への尊号加上を行う。

張居正の病没

  • 皇長子誕生の頃、大学士張居正は病に倒れ、百官が快復を祈願する。
  • 病中も政務を裁決し続け、泰寧衛の首長討伐の功で太師に晋封される(明代で実際に三公に叙された数少ない例)。
  • 死期を悟った居正は禮部尚書潘晟・吏部侍郎余有丁を後継に推薦するが、潘晟は評判が悪く言官の弾劾で罷免される。
  • まもなく居正は病没し、神宗は喪に服して厚く葬儀・諡(文忠)を与えた。

馮保の失脚

  • 居正の死により、宦官馮保は後ろ盾を失い孤立する。
  • 皇長子誕生に伴う叙爵を巡り、内閣大学士張四維との間で確執が生じる。
  • 東宮の宦官張鯨がかつて馮保に追放された恨みから、馮保と居正の悪事を神宗に訴える。
  • 御史江東之らの弾劾が続き、馮保の腹心徐爵が死罪となる。
  • 言官李植が馮保の十二の大罪を列挙すると、神宗はついに馮保を南京へ追放し、家産を没収する。
  • 馮保宅から発見された贈答録により、吏部尚書梁夢龍・工部尚書曾希吾・吏部侍郎王篆ら馮保の一派も次々に罷免された。
  • 馮保や居正と関わりのなかった刑部尚書厳清が吏部尚書に抜擢され、旧弊の情実人事を一掃したが、半年で病没。
  • 居正の引き立てを受けていた薊鎮総兵戚継光も広東への転任を命じられ、まもなく引退・病没した(練兵実紀・紀効新書の著者として名を残す)。

居正弾劾の広がりと申時行の入閣

  • 馮保失脚後、新進の諸臣が次々と居正を弾劾し、太師・上柱国の称号と諡を剥奪される。
  • 大学士張四維は世論の緩和を図り、吳中行・趙用賢ら以前居正に処罰された者の復官を上奏するが、父の喪で退任し病没。
  • 申時行が首輔となり、許国を東閣大学士に引き入れて閣内は融和したが、言官との対立が激化し朝廷は閣臣派と台官派に分裂する。

遼王事件と居正家の抄没

  • 居正は生前、遼王朱憲㸅(太祖の子孫)を謀反の名目で失脚させ、その広壮な邸宅を奪っていたとされる。
  • 刑部侍郎洪朝選は憲㸅の謀反の証拠なしと報告したが、居正の意に反したため誣告され獄死させられた。
  • 居正の死後、遼王の次妃王氏が冤罪を訴え出て、御史羊可立も居正の陥害を追及する。
  • 潞王の婚礼用の珠宝が不足したことをきっかけに、李太后が神宗に居正の私財蓄財を暗に糾弾し、神宗も遼府訴訟の件を持ち出す。
  • 神宗は宦官張誠らを荊州の居正邸へ派遣して家産を封じさせる。張誠は苛烈な手口で一族を軟禁し、餓死者が出るほど追い詰めた。
  • 捜索しても莫大な財貨は見つからず、張誠は隠匿を疑って居正の長子・敬修を拷問し、敬修は耐えかねて自殺する。
  • 親族は家財を出し合い黄金一万両・白銀十万両を差し出してようやく張誠は追及をやめた。
  • 大学士申時行や刑部尚書潘季馴の取りなしで、居正の老母には邸一軒・田十頃が残されたが、居正の官爵は剥奪され、璽書詔命も回収、子弟は辺地に流された。

神宗の詔(要旨)

居正は親藩を誣告し、言路を塞ぎ、廃遼の邸宅を私したなど専権乱政の罪を犯したが、長年の功に免じて厳罰は控える。弟の張居易・子の張嗣修らは辺地に軍として流す、との内容。

その後

  • 張居易・張嗣修は官職を剥奪され辺境へ流された。かつて権勢を誇った張家は没落した。
  • 御史丁此呂は侍郎高啓愚の科挙試題を居正への勧進の意図ありと弾劾したが、申時行はこれを陥害と非難し反論の上奏をする。

評語

(詩:世の中は炎涼定まらず、失脚者にはさらに追い打ちがかけられる。人の心あるものならこれに憤り、力を尽くして正道に引き戻すべきだ、との趣旨。)