明史演義第七十五回 母膳に侍り教を奉じ儲を立つ/妃言に惑い神に誓い約を緘す (侍母膳奉教立儲 惑妃言誓神緘約)
丁此呂事件の余波
- 申時行が丁此呂の処分を求めると、言官たちが反発し、申時行・楊巍双方を弾劾する騒ぎになる。
- 神宗は高啓愚を罷免し丁此呂を留任させたため、申時行・楊巍は辞意を示す。
- 大学士余有丁の取りなしで両者は留任し、丁此呂は外任に転じる。
- 台官の推挙で王錫爵・王家屏が相次いで入閣するが、王錫爵は申時行と対立せず和合したため、抵抗を期待していた言官は失望する。
立太子論争の発端
- 万暦十四年、鄭貴妃が皇三子・常洵を出産すると、神宗はただちに彼女を貴妃に晋封する。
- 申時行らは、五歳になる皇長子常洛の生母・恭妃がまだ加封されていないのに鄭妃だけが先に晋封されたことを問題視し、東宮冊立を上奏する。
(上奏文の趣旨:太子を早く定めることは宗廟社稷のためである。皇長子誕生から五年経ち、歴代の先例に照らしても今こそ立太子すべき時である。)
- 神宗は「元子はまだ幼弱、二三年待ってから」と先送りする。
- 戸科給事中姜応麟・吏部員外郎沈璟が重ねて上奏し、恭妃を先に皇貴妃に封じてから鄭妃を封じるべきと主張する。
- 神宗は激怒し、姜応麟を辺地の典史に左遷、沈璟も降格。以後も刑部主事孫如法、御史孫維城・楊紹程らが立儲を求めて相次いで処罰される。
- 礼部侍郎沈鯉の重ねての進言に神宗はついに折れ、恭妃の加封を約束する形で言官の言を抑えようとする。
- 鄭貴妃の父・鄭承憲への封爵要求は、前例なしとして礼部に却下され、墓地代のみが下賜された。
鄭貴妃の逸話
(貴妃の父が貧しかった頃、娘を嫁がせようとした相手の孝廉が情に厚く縁談を白紙にした。娘は履物を形見に渡し、後に宮中で寵愛を得た貴妃がその孝廉を捜し出させ、恩に報いて官職に就けたという巷説を紹介する挿話。)
立儲をめぐる神宗と両太后
- 鄭貴妃は我が子常洵の立太子を望み、閨房で神宗に迫るが、神宗は長幼の序を破ることもできず立儲を先送りし続ける。
- 給事中王三余、御史何倬・鍾化民・王慎徳らが重ねて立儲を求めるが、神宗は取り合わない。
- 李太后が「なぜ皇長子を立てないのか」と問い、神宗が「彼は宮女の子だから」と答えると、太后は「お前も宮女の子ではないか」と怒る(太后自身も宮人の出であった)。
- 神宗は皇后のもとでもこの件を話題にし、皇后も穏やかに立儲を勧める。
毓徳宮での引見
- 万暦十八年正月、皇長子九歳。神宗は申時行・許国・王錫爵・王家屏らを召し立儲を協議する。
- 神宗は「長子はまだ幼い」と渋るが、大臣らの説得と皇長子・皇三子の対面を経て、その利発さを認め感慨を見せる。
- 大臣らは読書の早期開始を勧め、神宗も検討を約束する。
鄭貴妃の巻き返しと神宗の放縦
- 鄭貴妃はこれを知り不機嫌になり、神宗に迫って大高元殿で密かに常洵を太子とする誓約を立てさせ、玉盒に封じて授かる。
- 以後神宗はますます西宮に耽溺し、酒色に溺れて朝政を怠り、日講も廃し、朝見や郊祀すら代行させるようになる。
- 大理評事雒于仁が「酒色財気」の四箴を上奏し、神宗の怠政を痛烈に批判する。
(上奏の趣旨:陛下が病がちなのは酒・色・財・気の四つに溺れているためである。宴飲に耽り、寵臣に惑わされ儲位を久しく空位のままにし、財を貪り、宮女や宦官を理不尽に罰する――これらが病の根源であると諫める。)
- 神宗は激怒するが、申時行の取りなしで雒于仁は除名にとどまる。
- 吏部尚書宋纁・礼部尚書于慎行らが重ねて立儲を求めるが、いずれも罰俸される。
- 王錫爵は申時行と共同で立儲を強く求めようとするが、申時行は時機尚早として消極的。
- 王錫爵は独自に元子の教育開始と姜応麟らの復官を求めるが黙殺され、母の老齢を理由に辞職する。
- 申時行らの重ねての請願で二十年春の立儲実施が約束される。
- 工部主事張有徳が儀式の準備を求めて処罰される中、申時行が病気で不在の間に許国・王家屏が独断で上奏し申時行の名を連ねてしまう。
鄭貴妃の芝居と申時行の失脚
- 鄭貴妃は玉盒を抱いて神宗の前で泣き、「常洵は年少で福がないから元子に位を譲る、誓約は取り消してよい」と装って迫る。
- 神宗は誓いを違えられず、貴妃を慰めて前の誓約を守ることに決め、閣議には従わない。
- 申時行は自分の不在中に名を連ねられた経緯を密かに上奏していたが、神宗はこれを許国らの上奏と共に公表し、申時行に肩入れする形になる。
- 給事中羅大紘・中書舎人黄正賓が申時行を厳しく非難し処罰される。
- 許国・王家屏も辞任に追い込まれ、申時行への批判が強まり、申時行自身も三度目の辞表でようやく許され、趙志皋・張位を後任に推薦する。
東林党の起こり
- 万暦二十年、給事中李献可が元子教育を求める上奏で年号を誤記し、神宗に咎められ左遷される。
- 王家屏はこれを庇い自らも退けられ、孟養浩ら救援した者たちも杖罰・処罰される。
- 吏部郎中顧憲成・章嘉楨らが王家屏を弁護し、顧憲成も官を追われる。
- 無錫出身の顧憲成は郷里の東林書院で高攀龍・銭一本・薛敷教・史孟麟・於孔兼らと講学を始め、時政を論じて世に知られ、後の東林党の起こりとなった。
評語
(詩:太平の世にも論争は絶えず、朝廷の争いはよろしくない。王道が偏党によって損なわれることを知り、清議が盛んになるほど世は衰えていく、との趣旨。)