明史演義第七十三回 親情を奪い相臣諫を嫉む/主闕を規し母教芳を流す (奪親情相臣嫉諫  規主闕母教流芳)

張居正の改革と神宗の敬畏

  • 張居正は考成法などにより官吏の統制を強め、両宮太后の全面的な信任を得た。
  • 経筵での指導は厳格で、神宗が『論語』の字句を読み違えた際に声を荒げて正すほどであった。神宗は次第に張居正を畏れるようになる。
  • 建文帝の出家伝説について神宗に問われた際は、確証はないとしつつ言い伝えを紹介し、代わりに太祖の艱難を伝える皇陵碑文を進呈して神宗を感激させた。神宗からは銀章や御書額など多くの褒賞を受けた。

人事と万士和の失脚

  • 張居正は張四維を引き立て入閣させたが、四維は居正に対し部下同然に振る舞った。
  • 礼部尚書万士和は度々直言し居正に疎まれ、給事中朱南雍の弾劾を受けて辞職に追い込まれた。

劉台の弾劾とその末路

  • 戚継光が董狐狸を撃破した戦功を巡礼御史の劉台が上奏したところ、張居正は越権として台を弾劾。劉台は逆に、高拱追放や朱希忠への王爵授与など居正の専権ぶりを列挙して反撃した。
  • 張居正は動揺して辞意を示すも神宗に慰留され、劉台は投獄・廷杖・辺地への流罪に処された。のちに贈収賄の疑いで潯州へ再流罪となり、任地で急死。真相は明らかにされなかった。

奪情問題

  • 万暦五年、張居正の父が死去。喪に服すべきところ、李幼孜や馮保の後押しで「奪情」(喪中でも職務続行)が図られ、吏部尚書張瀚が奏請を拒むと居正の意を受けた馮保により罷免された。
  • 編修呉中行、検討趙用賢、刑部員外郎艾穆、主事沈思孝らが日食を機に居正の奪情を批判する上疏を提出。居正は激怒し、廷杖を科させた。大宗伯馬自強や掌院学士王錫爵の取りなしも居正の激しい反応(自ら首を差し出す芝居)に阻まれた。
  • 四人は廷杖ののち流罪。同僚の許文穆だけが密かに玉杯・犀杯を贈って労った。京中には居正を批判する匿名の貼り紙も現れたが、神宗は逆にこれを弾圧する諭を下した。

大婚と居正の帰郷・帰任

  • 翌年、神宗の大婚に際し居正は納采問名の副使を務めることになり、給事中李涑の反対を押し切って喪中のまま公務に復した。
  • 冊立の礼を終えると居正は父の埋葬のため帰郷を願い出、神宗・両宮太后から厚い餞別を受けた。帰郷後も朝廷の重要事は江陵の居正に伺いを立てる体制が続き、まもなく召還されて京師に戻った。

辺境の安定と神宗の放埒

  • 呂調陽が辞し、馬自強・申時行が閣務に参与。方逢時・李成梁ら辺将の活躍により宣大・遼東は十年にわたり平穏を保った。
  • 神宗は成長するにつれ後宮を増やし、宦官孫海・客用らに誘われて夜間の遊興にふけるようになった。ある夜、酒に酔って歌い手に刀を向ける事件を起こし、髪を切らせるという乱行に及んだ。

太后の叱責と罪己の詔

  • この一件は馮保を通じて李太后に伝わり、太后は激怒して神宗を呼び出し、青布の質素な装いで厳しく叱責した。廃立すら仄めかす太后に神宗はひたすら謝罪。
  • 張居正が起草した諫言の上疏を経て、最終的に神宗自身の名で自らの過ちを認める詔(罪己の詔)が発せられ、世間には廃立の噂も流れたがやがて収まった。
  • 太后は孫海・客用ら遊興を助長した宦官を宮外へ追放し、馮保に反目していた宦官たちも一掃された。
  • 居正は自身への疑いを避けるため辞意を装って上奏したが、神宗は慰留し、三十歳になるまで引き続き輔導を頼むと応じた。

累朝寶訓の編纂

  • 居正は歴代皇帝の言行録『累朝寶訓』を編み、創業の艱難・勤学・敬天・法祖・保民など四十項目にまとめて経筵の教材とした。神宗は表向き従ったが、内心では次第に居正の説教を疎ましく思うようになっていた。

場面の転換(次回への伏線)

  • ある日、神宗が慈寧宮に立ち寄ると李太后は不在で、代わりに見慣れぬ若い女官が現れ挨拶をする場面で本回は終わる。