明史演義第六十三回 仇鸞を罪し棺を剖き正法す/厳嵩を劾し死を拚して名を留む (罪仇鸞剖棺正法  劾嚴嵩拚死留名)

馬市の破綻と仇鸞の出征

馬市が開かれると俺答は劣馬を高値で押し付けるなど信義を守らず、しばしば市の裏で略奪も行った。李逢時・趙錦らは互市の停止と討伐強化を上奏し、世宗は仇鸞に出征を命じた。

仇鸞の失脚と死

かつて厳嵩の後ろ盾で権勢を誇った仇鸞は、京営総督となって驕り高ぶり、厳嵩と対立するようになった。出征しても戦意なく手を尽くしかね、貓児荘で伏兵に遭い大敗を喫し、味方を見捨てて敗走した。まもなく背中に悪性の腫物を患い病臥。徐階・趙錦の弾劾を受けて大将軍の印綬を取り上げられると病状が急変し、まもなく死去した。

仇鸞の断罪

陸炳の探索により仇鸞が敵と内通し賄賂を受けていた証拠が挙がり、逃亡を図った旧部下の時義・侯栄も捕らえられた。世宗は激怒し、仇鸞の棺を暴いて屍を斬り、家族も処刑、馬市も廃止された。その後の北伐でも侯鉞が俺答の伏兵に大敗するなど、対外戦は苦戦が続いた。

楊継盛の厳嵩弾劾

かつて仇鸞を弾劾して左遷されていた楊継盛は世宗に召し返され、兵部武選司郎中に昇進すると、厳嵩打倒を決意した。妻張氏は「仇鸞一人にすら危うく命を落としかけたのに、権勢並ぶ者なき厳嵩父子に敵うはずがない」と諫めたが、継盛は「龍逄・比干のように名を後世に残せれば本望」と聞き入れず、厳嵩の十の大罪・五の奸計を数え上げる長大な弾劾文を上奏した。その内容は、厳嵩が丞相のごとく専権を振るい人事・賞罰・軍功を私し、皇帝の側近・言路・廠衛にまで手を回して耳目を塞いでいる実態を具体的に告発するものであった。

継盛の刑死

上疏を見た世宗は激怒し、厳嵩は「継盛は景王・裕王と通じている」と讒言して事態をさらに悪化させた。継盛は杖責のうえ投獄され、刑部でも厳嵩の意を受けた尚書何鼇が重罪を科そうとしたが、郎中史朝賓がこれを諫めて逆に左遷された。兵部武選司郎中周冕は厳世蕃の不正な軍功授与を事実に基づき暴く上覆を提出したが、厳嵩の裏工作で周冕自身が投獄・削職される結果となった。世論は継盛に同情的であったが、厳嵩は世蕃・胡植・鄢懋卿らと相談のうえ処断を決意し、折しも起きた倭寇関連の獄事に継盛を巻き込んで処刑した。継盛は獄中で「浩気は太虚に還り、丹心は千古を照らす」との遺詩を残して死んだ。

張氏の上疏

夫の刑死を知った妻の張氏は、自ら代わって死を願う上疏を奉った。継盛の忠義と張氏の義烈は、ともに後世に語り継がれる逸話となった。