明史演義第六十二回 狡寇を追い庸帥敗れ還る/馬市を開くに藎臣極諫す (追狡寇庸帥敗還 開馬市藎臣極諫)
俺答の要求と朝議の紛糾
京郊を焼き払った俺答は、時義・侯栄を通じて仇鸞に互市の開放を要求し、捕虜とした宦官を通じて世宗にも通貢を求める書状を送った。世宗が嚴嵩・李本・徐階に諮ると、嚴嵩は責任を禮部へ押し付け、徐階は「一旦退兵させたうえで大同経由の正式な使者に改めて交渉させ、その間に援軍を集める」という策を提案し、世宗はこれを採った。
主戦論と主和論の対立
俺答が三千人での入貢を強硬に求めてくると、国子司業趙貞吉は内応の危険と屈辱を説いて主戦を唱え、検討毛起らの妥協論と激しく対立した。徐階は決着つかぬまま自ら世宗に奏上した。世宗は趙貞吉を召して意見を問い、貞吉は親征・罪己の詔・恩賞による士気鼓舞などを条陳し、世宗は五万両を放出して将士を励ました。俺答は八日にわたる掠奪の末、満足して塞外へ退いた。
仇鸞の偽りの戦功と丁汝夔の刑死
世宗の命で追撃した仇鸞は俺答軍に返り討ちに遭い大敗したが、逃げる途上で味方の死体を斬って敵の首級と偽り、戦功として報告し、世宗はこれを信じて賞した。一方、京郊の宦官邸焼失の責を問われた兵部尚書丁汝夔・都御史楊守謙は厳嵩の助言に従っただけであったが、厳嵩は世宗の怒りを恐れて庇わず、両名は処刑された。丁汝夔は刑場で「厳嵩に誤られた」と叫んで死んだ。
趙貞吉の左遷と諫言者の弾圧
趙貞吉は厳嵩の義子趙文華と口論した恨みを買い、厳嵩の讒言で杖責のうえ荔波典史に左遷された。錦衣衛経歴の沈鍊は下級官吏ながら敢然と主戦を唱え、厳嵩の十の罪状を並べ吏部尚書夏邦謨も併せて弾劾する上疏を奉ったが、逆に杖刑を受け保安へ流された。徐学詩・王宗茂・葉経・謝瑜・陳紹ら厳嵩を弾劾した官僚も次々処罰され、「上虞四諫官」と呼ばれた。
仇鸞の専横と馬市の開設
仇鸞は厳嵩に阿り寵を得て京営の兵制を改め権勢を強めたが、これを諫めた吏部侍郎王邦瑞はかえって削職された。仇鸞は義子脱脱を通じて俺答との互市(馬市)開設を進めた。兵部車駕司員外郎楊継盛は互市の「十の不可・五の謬論」を条陳して痛烈に反対したが、仇鸞の讒言により世宗の意は翻り、継盛は狄道典史に左遷された。
評語
語り手は、朝令暮改の政令によって直言の臣がかえって厳しい処罰を受ける有様を「朝三暮四」に例え、忠臣の孤忠がむなしく葬られる時世を嘆いている。