明史演義第六十一回 河套を復せんとし将相冤を蒙る/都門を擾し胡虜火を縦つ (復河套將相蒙冤  擾都門胡虜縱火)

夏言と厳嵩の暗闘

厳嵩父子は夏言に許されて跪拝を解いたものの内心の恨みは消えず、宮中の宦官に賄賂を贈って自分への評判を良くする一方、夏言を貶める讒言を仕込んだ。醮の青詞も厳世蕃が巧みに帝意を汲んで代作し、世宗はますます厳嵩を寵愛するようになった。

韃靼の情勢と河套復興論

達延可汗が韃靼諸部を統一し、南下して河套を占拠、子孫を漠南漠北に分封した(俺答はその一支、土黙特部の祖)。嘉靖二十五年、陝西三辺総督の曾銑は河套を明軍が奪還すべきとする上疏を奉り、世宗はこれを容れて銑に軍務を委ね、銑は初戦で小勝を収めた。曾銑は謝蘭・楊守謙・王邦瑞ら諸巡撫と共同で復套の方略と陣図を上奏し、兵部もこれを支持した。

夏言・曾銑の失脚

大内の火災で方皇后が没すると世宗は動揺し、楊爵ら獄囚を釈放する一方、厳嵩は「河套開戦の災いは天譴」として曾銑・夏言を弾劾。世宗は態度を一変させ、夏言を罷免、曾銑を召還した。折しも軍餉を横領して曾銑に弾劾されていた咸寧侯仇鸞が厳嵩と結び、曾銑が夏言の縁者を通じて収賄したとの誣告を仕立てた。曾銑は西市で処刑され、夏言も逮捕の途上でこれを知り、悲嘆しつつ厳嵩を共工・王莽・司馬懿に例える弾劾の上疏を書いたが取り上げられず、ついに処刑され、家族も流罪となった。刑部尚書喩茂堅の減刑の訴えも退けられた。以後、政務は厳嵩の独裁となった。

沈束夫妻の逸話

俺答の侵攻を大同総兵周尚文が退けたが、周尚文の死後、恤典を求めた給事中沈束は厳嵩の恨みを買い十八年にわたり獄に繋がれた。妻の張氏は夫の代わりに自ら入獄を願い出る上疏を奉り、その孝烈は世に知られた。のちに世宗の心に留まり沈束は釈放されたが、老父はすでに世を去っていた。

俺答の北京進迫

周尚文の後任張達も戦死し、俺答は仇鸞の賄賂で一時矛先を変えたのち古北口を破って北京郊外に迫った。都御史商大節は老弱の兵と空の武庫で守城の苦境に立たされながらも士気を鼓舞し、武挙の応試者を動員してどうにか城を守った。世宗は仇鸞を大将軍に、楊守謙を提督に任じたが、兵部尚書丁汝夔は厳嵩の「軽々に戦うな」との助言に従って出撃を控え、その間に俺答は京郊の民家を焼き払い、被害は広がった。