明史演義宮変に遘い妃嬪重辟に罹る/榻前に跪き父子私情を乞う(第六 十回 遘宮變妃嬪罹重辟 跪榻前父子乞私情)
厳嵩の台頭
分宜出身の厳嵩は進士出身ながら長く不遇であったが、尚書夏言に取り入って禮部尚書まで昇進した。醮事に際して撰した『慶雲賦』『大禮告成頌』が世宗の意に適い寵を得る一方、夏言・顧鼎臣は次第に疎まれていった。顧鼎臣は嘉靖十九年に病没。夏言は厳嵩を自分の引き立てた門下同然に扱って傲慢に振る舞ったため、厳嵩は表向き謙譲を装いつつ内心深く恨みを抱くようになった。
夏言の失脚と郭勛の獄死
夏言は世宗の南巡に随行した際、賀表の扱いをめぐり厳嵩・郭勛の讒言によって銀章・勲階を剥奪されかけ、のちに一部回復したものの以後たびたび世宗の不興を買った。昭聖太后(張氏)の喪礼をめぐる上疏の些細な誤字を咎められ、夏言は致仕を命じられた。一方、郭勛は言官の弾劾を受けて投獄され、厳嵩の裏工作にもかかわらず罪状が積み増され、獄中で死んだ。厳嵩は片腕を失い落胆したが、まもなく夏言が召し返されて入閣した。
香葉冠の一件と厳嵩の入閣
世宗が道教式の香葉冠を臣下に賜った際、夏言はこれを人臣の礼にあらずとして辞退したが、厳嵩は謹んで着用し世宗の歓心を買った。日食を口実に夏言は「大臣慢君」として罷免され、厳嵩が武英殿大学士として入閣。以後、厳嵩は世宗の絶大な信任のもとに権勢をふるい、子の厳世蕃も要職に就いて父子で私利をむさぼった。
壬寅宮変
端妃曹氏の侍婢楊金英は日頃の折檻を恨み、世宗が端妃の宮で酔い眠った隙に絹の帯で首を絞めようとしたが、宮女張金蓮に見咎められ未遂に終わった。方皇后は世宗の一命が助かったのを確認したのち、楊金英を厳しく詮議し、王寧嬪・端妃曹氏まで共謀の疑いをかけて三人とも凌遅の極刑に処した。世宗は快復後、端妃の無実を悼んで悲嘆したという。のちに大内の火災で方皇后が焼傷を負って病没すると、世宗は皇后の恩を思い元后の礼で厚く葬った(諡は孝烈)。
厳嵩独裁の始まり
宮変を平定した世宗は政務を厳嵩に一任する旨を宣言し、厳嵩は独断で政を専らにするようになった。翟鑾は子の科挙不正を口実に厳嵩の讒言で失脚させられ、山東巡按御史葉経は厳嵩の収賄を摘発しようとして逆に讒訴され杖死した。謝瑜・喩時・陳紹ら多くの言官も厳嵩弾劾のかどで処罰された。世宗は西内に移り長生を求めて朝政を顧みなくなり、陶仲文だけが常侍を許された。厳嵩は仲文に賄賂を贈って自らの立場を有利に運ばせた。
夏言との対立
張璧・許瓚の相次ぐ退場後、夏言が再び入閣し、以前にも増して厳嵩を圧倒するようになった。厳嵩配下の官吏を次々更迭し、厳嵩は表立って抗弁できなかった。厳世蕃の収賄が夏言に露見しかけると、厳嵩父子は夏言邸へ赴き、病と称して面会を渋る夏言に対し、長時間跪いて涙ながらに許しを乞うた。
評語
語り手は、厳嵩父子が人前で涙を流し卑屈に振る舞ったことについて、「よく屈しよく伸びるのが真の男」としながらも、これは奸人の巧みな偽装にすぎず、後年その父子が世に断罪される日が来ようとは誰も予想しなかった、と皮肉を込めて評している。