明史演義第五十九回 法壇を繞り仙鶴を迓う/行宮を毀ち力めて真龍を救う (繞法壇迓來仙鶴 毀行宮力救真龍)
淫祠の破却
世宗は皇子載基を得たことで方士への信頼をますます深め、道教が盛んになり仏教は衰退した。大興隆寺の火災を機に御史諸演が異端排斥を上奏し、夏言もまた宮中の千善殿の仏堂廃止を求めた。夏言は郭勛・李時とともに殿内を検分したところ、最奥の一室に男女が交わる異形の淫らな像が多数隠されているのを発見し、世宗に報告。世宗は激怒し、像をことごとく溶解させて廃棄し、跡地には慈慶宮・慈寧宮を新築させた。
相次ぐ皇子の死と三后の運命
皇子載基は生後二か月で夭折。その後、王貴妃・杜康妃・盧靖妃らが相次いで皇子を産み、杜妃の子載垕(のちの穆宗)、盧妃の子載圳(のちの景王)が生まれたが、さらに生まれた四子もすべて夭折した。世宗の八子はいずれも妃嬪の子で、正妻にあたる三后には子がなかった。第一后の陳氏は世宗の不興を買い流産の末に病死。第二后の張后は一時淑徳を示したが理由不明のまま廃され、まもなく没した。第三后の方氏は張后廃位後に九嬪の首位から立后し、世宗はこの立后に異例の盛儀を行った。嘉靖十八年、世宗は載壑を皇太子に、載垕を裕王、載圳を景王に封じた。
張天師の醮壇と邵元節の死
江西龍虎山の張天師彦頨が入京し、世宗の寵を得て正一嗣教真人に封じられ、邵元節と壇を分けて祭祀を担った。五層の壇を築いての盛大な醮の際、瑞雲や白鶴が現れたと伝えられ、世宗はいよいよ仙術を信じた。彦頨の帰郷後、その邸宅が火災に遭うと世宗は内帑を投じて再建させ、諫言する給事中黄臣の言も聞き入れなかった。彦頨の死後は列侯なみの厚い恤典が与えられた。 やがて世宗が承天へ南巡した際、京にとどまっていた邵元節は病没に際し、後任として陶典真(陶仲文)を推挙するよう門人に言い残した。世宗はこれを受け入れ、陶仲文を行在に召した。
陶仲文の登用と宮中の怪異
陶仲文はもと符籙の術を学んだ人物で、邵元節の口利きで官途に就いていた。元節から後継として推薦され、宮中で妖異払いの祈禳を三日三晩行うと怪異は鎮まったという。宮中で夜な夜な木魚の音がする怪異があり、床下から朽ちた木魚が掘り出されたとの逸話も伝わる。世宗は仲文の法力を信じ、元節の死に際して改めて彼を重用した。
承天行宮の火災と陸炳の救駕
世宗が衛輝に至った日、突然の旋風が吹き、陶仲文は「今夜火災あり」と予言した。世宗が夜の火の用心を命じて就寝したところ、深夜行宮が火に包まれ、扈従の官吏に多数の死傷者が出た。世宗も逃げ場を失いかけたが、錦衣衛指揮使の陸炳が背負って脱出させ、陶仲文も「陛下の災いを身代わりに受けた」と鬚眉を焦がして駆けつけた。世宗は陸炳と仲文を厚く賞し、仲文には神霄保国宣教高士の号を与えた。承天では章聖太后を顕陵に改葬し、還京後は太子に監国を命じる意向を示した。
楊最の諫死と直言官の弾圧
世宗が太子監国を望む旨を廷臣に諭すと、太僕卿楊最はひとり反対し、堯舜・孔子の故事を引いて仙道への傾倒を諫める上疏を奉った。世宗は激怒して楊最を下獄・拷問させ、楊最は獄中で死んだ。世宗はその後も陶仲文を忠孝秉一真人に進め、方士段朝用の詐術(銀器を偽って献上)にも褒賞を与えた。監察御史楊爵は政治の五大弊(郭勛の専横、土木の乱発、朝政の怠慢、方術偏重、言路の閉塞)を直言して投獄・拷問され、これを援護した周天佐・涂鋐も獄死した。大学士張孚敬・李時が相次いで世を去り、夏言・顧鼎臣が青詞(醮の祝詞)の名手として寵を得る一方、その陰でのちの大奸臣・厳嵩が台頭しようとしていた。