明史演義第五十二回 安慶を守り剣を仗り叛奴を戮す/南昌を下し兵を発し首逆を征す (守安慶仗劍戮叛奴 下南昌發兵征首逆)

王守仁の戦略構想

臨江に入った王守仁は知府戴徳孺と協議し、臨江は守りにくいとして吉安への移動を提案。宸濠の取りうる進路について「京師直撃なら上策、南京侵攻なら中策、南昌固守なら下策で四方から包囲され自滅する」と分析した。吉安では知府伍文定と共に兵糧・武器・舟の準備を進め、諸府州へ「朝廷はすでに十六万の大軍を南昌へ集結させている」との虚偽の檄文を発して宸濠を足止めさせた。

反間の計と安慶籠城

李士実・劉養正は宸濠に南京進撃を勧めたが、守仁が二人宛てに「密かに朝廷帰順の意あり、早く東進させよ」との内容の蝋書をわざと宸濠の手に渡るよう仕組んだため、宸濠は二人を疑い言を信じなくなった。十余日を経ても大軍来襲の気配がないことに気づいた宸濠は策略と悟るが遅く、結局李・劉の勧めで六万の兵(十万と号す)を率い鄱陽湖から東進、安慶を攻めた。安慶は都督僉事の楊鋭、知府の張文錦、指揮の崔文らが固守し、投降勧告の使者や潘鵬の家族を惨殺して見せしめとするなど激しく抵抗し、宸濠軍は連日攻めあぐねた。

南昌攻略の決断

守仁は吉安で集めた八万の兵を率い豊城まで進出。諸将の間では安慶救援を先にすべきとの意見もあったが、守仁は「安慶救援は挟撃の危険が大きい。宸濠は南昌の守りを手薄にして出陣したはずで、南昌を落とせば宸濠は自ら兵を返し安慶の囲みも解ける」と説き、南昌直撃を決定。全軍を十三隊に分け伍文定を先鋒とし、九隊を正兵、四隊を遊兵とした。南昌城南に伏兵ありとの情報を得ると、知県の劉守緒に騎兵五千を与え間道から奇襲させる策も講じた。

南昌陥落

七月十九日出兵、二十日払暁に総攻撃を開始。城中の民には協力も抵抗もしないよう檄を射込み、鼓の合図で梯子や縄を用いて城壁に取りつかせた。伏兵も劉守緒に撃破され、城は程なく陥落。守仁は略奪を働いた降兵を処刑して軍紀を正した。炎上する王宮からは宜春郡王拱樤や万鋭ら逆党が捕らえられ、蓄えられていた金銀財貨は将士への恩賞と後の軍資に充てられた。

武宗の親征と南巡

守仁の急報は豹房の武宗に届き、王瓊は「王伯安(守仁)がいる以上いずれ捷報が来る」と楽観したが、江彬は親征を勧め、武宗はこれを南巡の口実とした。蕭敬・秦用・盧朋・銭寧・臧賢・陸完らは連座で投獄・籍没された。武宗は寵妃の劉氏(劉娘娘)を後から追いつかせる算段をしたが玉簪を紛失し、単舟で急ぎ引き返して合流するなど、実態は親征というより南方への物見遊山であった。出発後まもなく守仁の勝報が届いたが、武宗はこれを伏せたまま悠然と南下を続けた。

鄱陽湖決戦への布陣

南昌を得た守仁は二日休息の後、宸濠が安慶の囲みを解いて南昌救援に向かっていると知り、「まさに望むところ」と迎撃を決意。諸将の中には籠城持久を勧める声もあったが、守仁は「宸濠軍は烏合の衆で軍紀もなく、南昌を落とされ進退窮まっている今こそ好機」と説き、新たに参陣した撫州知府の陳槐も加えて出撃を決定。伍文定を先鋒に任じ、余恩・邢珣にはそれぞれ密計を記した錦囊を授け、徐璉・戴徳孺には左右両翼として挟撃を命じ、全軍を進発させた。

評語

末尾の詩は、文官と侮られがちな王守仁が諸葛孔明さながらに帷幄の中で勝算を巡らせたことを称え、南昌での作戦成功をもって後世まで文成(王守仁の諡)を仰ぐべきだと評している。