明史演義第五十一回 群盗を豢い寧藩叛を謀る/盛宴に謝し撫使戕われる (豢群盜寧藩謀叛 謝盛宴撫使被戕)
寧王宸濠の出自と野心
寧王宸濠は太祖の子・寧王権の五世孫。軽佻な人物であったが術士の李自然・李日芳らに「天子の相あり」と煽てられ、南昌に天子の気ありとの説も相まって野心を膨らませた。劉瑾在世時、中官梁安を通じて多額の賄賂を贈り、南昌左衛を寧藩護衛に改めさせ河泊所も獲得したが、劉瑾誅殺後にこの護衛は一旦取り消された。
護衛の復活と費宏の警戒
兵部尚書となった陸完に賄賂を重ね、伶人の臧賢の伝手も使って護衛復活を画策。大学士の費宏はこれに強く反対していたが、陸完と銭寧は費宏が読巻のため不在となる隙を狙って上奏を通し、護衛を復活させた。費宏はその後讒言により致仕させられ、帰郷の途上で宸濠の手の者に船を焼かれる被害にも遭った。
灯籠の献上と乾清宮の火事
宸濠は元宵節に精巧な灯籠を武宗に献上して歓心を買った。その後豹房で火災(実は乾清宮)が起きた際も武宗は査問せず、楊廷和らの上奏でようやく形ばかりの詔を出すにとどめた。
群盗の招撫と胡世寧の弾劾
宸濠は盗賊の楊清・李甫・王儒らを配下に招き入れ、鄱陽湖の盗賊頭・楊子喬を統領に任じ、劉養正を軍師格の腹心として重用した。江西按察司副使の胡世寧はこの動きを危険視し、朝廷に監督強化を求める上奏を行った。武宗は孫燧を右副都御史として江西巡撫に任じたが、宸濠は胡世寧を讒言で貶め、さらに毒殺を図った。世寧は九死に一生を得て逃れ、浙江でも刺客に狙われたが李承勛に匿われて京師に至り、獄に下されながらも訴え続け、最終的に減刑され遼東瀋陽衛への流罪となった。
諸方への懐柔工作
子のない宸濠は自子を太廟の香火役として入京させようと銭寧を通じて武宗の勅を得た。また府邸を宮殿並みに拡張しようとしたが、布政使の張嵿は賄賂を拒み阻止した。宸濠は銭寧を介して張嵿を光禄寺卿へ栄転させ江西から遠ざけた。
軍備増強と孫燧の孤立
宸濠は凌十一・閔廿四・呉十三ら群盗五百余人を招き、広西の狼兵や南贛・汀漳の峒蛮とも結び、皮甲や火器を密造した。盗賊による庫銀強奪事件を巡撫孫燧が摘発すると宸濠は奪還させ、孫燧の告発の上奏はことごとく途中で握りつぶされた。
孫燧・許逵の殉難と挙兵
按察司副使の許逵は先手を打つよう進言したが孫燧は兵力不足を理由に慎重だった。宸濠は父の喪に服す姿を演じて孝行を装いつつ、孫燧に自分を称揚する上奏を強要。武宗周辺では張忠が江彬の意を受けて宸濠と銭寧・臧賢の結託を密告し、楊廷和らも寧藩護衛の再削減を議した。臧賢邸への捜索で寧藩の間諜が発覚し、朝廷は太監賴義・駙馬崔元・都御史顔頤壽を派遣して護衛撤回を命じることとした。しかし勅使が到着する前に、宸濠は自らの誕生日の祝宴に乗じ、密偵林華の急報を受けて挙兵を決断。劉養正の献策により盗賊の頭目らを伏兵として配し、翌朝、祝賀に訪れた孫燧・許逵ら官員を捕らえた。孫燧は「太后の密旨」を騙る宸濠に真っ向から反駁し、許逵も反賊と罵って抗ったため、両名とも惨殺された。宸濠は劉養正に檄文を書かせて正徳の年号を廃し、劉養正を右丞相、李士実を左丞相、王綸を兵部尚書兼総督軍務大元帥に任じ、南康・九江へも兵を進めて陥落させ、大江南北を震撼させた。
王守仁の登場
かつて劉瑾に反対して龍場駅に左遷された王守仁は、その後功を重ねて僉都御史・南贛汀漳巡撫となり、大帽山・大庾・横水・左溪・桶岡・浰頭の賊を次々平定していた。宸濠との宴席で李士実の「湯武あらば伊呂あり」との言葉に「伊呂あれば夷斉あり」と切り返し、宸濠に不服従の意を示していた。折しも福州の兵変鎮圧の勅命を得ていた守仁は、これにより兵権を持つ立場となり、宸濠挙兵の際にも難を逃れた。豊城で知県の顧佖から宸濠謀反の急報と自身への懸賞のことを知らされた守仁は変装して臨江へ潜行し、知府の戴徳孺に迎えられて城中で策を練ることとなった。
守仁がいかに計を定めたか、次回で明らかにされる。