明史演義佳麗を覓め幸い歌婦に逢う/直諫を罪し杖もて言官を斃す(第五 十回 覓佳麗幸逢歌婦  罪直諫杖斃言官)

帰京後の空虚と再度の出遊

武宗は帰京後、南郊の祭祀や南海子での狩猟、応州で得た武具の展示などで数日を過ごしたが、豹房に戻っても李鳳を忘れられず悶々とした。江彬に勧められ、「また第二の李鳳を探しに」と再び変装して宣府へ出た。谷大用が守る関門は自由に通れた。典膳の李恭が江彬を弾劾する上奏を準備していたが、事前に知った江彬に法司を使嗾されて投獄され獄死した。石天柱・葉忠らの諫奏も黙殺された。太皇太后崩御の報で一旦帰京し喪に服したが、まもなく「隧道視察」を口実に昌平から密雲・喜峰口へ出た。

民の動揺と直言官の受難

武宗の出遊は婦女狩りだとの噂が広まり民が逃げ隠れたため、永平知府の毛思義は「勝手に駕来と称して民を騒がす者は捕らえる」旨を掲示して安心させたが、これが武宗の耳に入り投獄され、後に雲南安寧知州へ左遷された。河西務では指揮の黄勛が供応を名目に吏民を搾取し、巡按御史の劉士元が調査しようとすると、黄勛は江彬らに賄賂を贈って士元を誣告させ、武宗は士元を裸にして杖罰させた。

太皇太后の葬儀と梁儲への剣の脅し

太皇太后の梓宮が発する日、武宗は酒に酔い儀式中に眠り込み、祭主の役目も滞らせた。天変を理由に修省を求める上奏にも応じなかった。さらに「総督軍務威武大将軍朱壽」として自ら寧夏出兵の詔を内閣に起草させようとし、楊廷和・梁儲・蔣冕・毛紀らが抵抗。武宗は梁儲に剣を突きつけて起草を迫ったが、梁儲は「君に命じられて臣が詔を書けば大逆に等しい、死を賜っても書けない」と拒み、武宗も強いて押し通せなかった。

大同・榆林・綏德での婦女強奪

武宗はやがて閣臣に知らせぬまま江彬らと東安門を出て居庸関を越え、宣府から大同、さらに黄河を渡って榆林、綏德州へと転々とした。総兵官戴欽の娘が美貌との噂を聞き、江彬を介して事実上の強要により娘を差し出させ、その夜のうちに輿で迎え取った。

太原の歌妓劉氏

太原では諸妓の中から歌唱の巧みな一人の女性に目を留め、酒宴の後に関係を持った。既婚(楽工楊騰の妻)ながら処女同然であったことに驚いた武宗は、彼女が「内視の術」で貞潔を保っていたと聞き大いに喜んだ。以後この劉氏(劉娘娘)を寵愛し、豹房・西内で専房の寵を得て、江彬以下もこれに礼を尽くした。

鎮国公自封と諫言弾圧

武宗は偏頭関で自ら鎮国公を名乗る勅を発し、さらに江彬を平虜伯、許泰を安辺伯に封じるなど大量の恩賞を行った。劉娘娘を伴い帰京した後、南巡を望み「威武大将軍太師鎮国公朱壽」の名で祈福を口実に出発の準備を命じた。翰林院修撰の舒芬は同僚と連名で、寵幸の臣が政を壟断し親王の変(寧王)まで起きている実情を切諫する上奏を行った。兵部郎中の黄鞏はさらに痛烈な上奏で、逆瑾以来の政道の乱れと権臣専横を指摘し、崇正学・通言路・正名号・戒游幸・去小人・建儲貳の六策を進言した。陸震・夏良勝・萬潮・陳九川ら多数の官員が連名で諫言を重ねたが、武宗は江彬・銭寧らの讒言もあり激怒し、黄鞏ら六人を投獄、舒芬ら百七人を午門外に跪かせる罰を科した。さらに周敘・余廷瓚・林大輅らの上奏にも同様に激怒し、次々と逮捕した。天変(南海子の水害で橋の鉄柱が折れる等)が相次ぐ中、金吾衛指揮の張英は血を流して諫死し、杖罰の末に獄死した。舒芬ら百七人は各杖三十、黄鞏ら六人は杖五十、陸震・劉校・何遵ら十余人は杖に堪えず落命した。武宗は再び言論を禁じ南征の準備に入るが、ここで寧王宸濠が官を殺し反乱を起こしたとの急報が届く。

評語

末尾の詩は、命を賭して直言した忠臣たちの節義を龍逄になぞらえて称える一方、朝廷の内臣に武勇なく藩王の反乱を抑えられない情けなさを嘆いている。