明史演義第四十九回 辺塞に幸し馬を走らせ花を看る/酒肆に入り游龍鳳を戯る (幸邊塞走馬看花  入酒肆游龍戲鳳)

居庸関での攻防

武宗は江彬を伴い微行で徳勝門を出て昌平方面へ向かった。大学士の梁儲・蔣冕・毛紀らが沙河で追いつき諫めたが従わず、居庸関を目指した。巡関御史の張欽は事前に武宗の来訪を察知し、辺境情勢の危険や英宗の土木の変の故事を引いて出関を諫める上奏を送った。張欽は関門の鍵を隠して開門を拒み、「開けば死罪、開かなくても死罪、同じ死ぬなら万古に名を残す方を選ぶ」と述べて剣を佩き関門を守った。武宗は使者を送るも張欽に一喝され追い返され、諸官の諫奏が殺到したこともあり一旦帰京した。数日後、張欽を白羊口巡視に出させ、代わりに谷大用を関に置いたうえで、江彬と変装して再び徳勝門を抜け出し、居庸関を通過した。

宣府での放縦

宣府では江彬が予め鎮国府第という豪奢な邸宅を用意しており、武宗はそこで歓楽に耽った。江彬の案内で夜な夜な良家に押し入り婦女を強引に召し出させ、意に染まぬ家も抗えず従うほかなかった。

応州親征と虚偽の凱旋

一月余り後、韃靼の小王子が大同に侵入し応州へ転戦、警報が相次いだ。武宗は自ら出陣を望み、「総督軍務威武大将軍総兵官朱壽」の印を鋳造して自称し、宣大の兵を発して応州へ出た。小王子は御駕親征と聞き退いたが、追撃戦で得た戦果は敵の首十六級のみで、味方の死傷は数百に及んだ。それでも武宗は凱旋と称し大同に長逗留して遊興を続け、群臣の帰京要請を無視した。南京吏科給事中の孫懋は江彬の専横と誘導を糾弾する上奏を送ったが、聞き入れられなかった。

官員の諫言と楊廷和

喪が明けて還京した楊廷和も上奏したが功を奏さず、忠誠を評価されて入閣を許されるにとどまった。廷和は蔣冕と共に居庸関へ赴き還蹕を促そうとしたが、あらかじめ武宗の意を受けた谷大用に阻まれ空しく帰京した。武宗は大同から宣府へ戻った。

酒肆の女李鳳

宣府滞在中、武宗は単身で市中を歩き、酒肆で美しい娘・李鳳に出会う。酒を求める客と装って言い寄ったが拒まれ、力ずくで奥へ引き込み関係を迫った。李鳳が抗うと、武宗は自ら着ている蟒服と御璽(「受命於天既壽永昌」の文字)を示して身分を明かし、李鳳もついに従った。その最中、兄の李龍が戻り不審に思って弁兵を呼んだが、皇帝と知って一同平伏した。後日、李龍にも官職と黄金千両が与えられた。

李鳳の病没

歳末になっても武宗は李鳳への未練で帰京を渋った。妃嬪に封じようとしたが李鳳は固辞し、ただ早く宮闕に帰るよう願った。翌年正月、ついに武宗は李鳳らを伴い帰京の途につく。居庸関で雷雨に遭い、関口の四天王像の威容に驚いた李鳳は驚愕のあまり倒れ、病床で「自分の生死より聖駕の安泰と民生を思ってほしい」と言い残して息を引き取った。武宗は深く悲しみ、関山に手厚く葬った。

京師への凱旋

徳勝門外には彩棚が設けられ、対聯には臣下の名だけを記し「威武大将軍」の名を称える文言が並んだ。楊廷和ら百官が出迎える中、武宗は威武大将軍の姿で堂々と入城し、応州で自ら一敵を斬ったと得意げに語った。百官はやむなくこれを称賛し、武宗は豹房へ戻っていった。

評語

末尾の詩は、剣を帯びて意気揚々と帰る武宗に対し百官が這いつくばって万歳を唱える様を皮肉り、明の朝廷にはもはや自立した臣下がおらず、みな女奴のように盲従するばかりだと嘆いている。

武宗が帰京後さらに遊幸を重ねるかどうかは、次回で明らかにされる。