明史演義第五十三回 伍文定、火を縦ち国賊を擒う/王守仁、俘を押し杭州に至る (伍文定縱火擒國賊 王守仁押俘至杭州)

南昌救援への転進

安慶を半月余り攻めあぐねていた宸濠は、南昌が包囲されたとの報に動揺した。李士実は「南昌を見捨てて南京を奪い即位すべき」と進言したが、宸濠は南昌に蓄えた財貨を惜しみ、根本の地を守るためとして南昌救援を選んだ。

黄家渡の水戦

先鋒二万を返す形で東進した宸濠軍は黄家渡で伍文定・余恩隊と遭遇。伍・余は錦囊の計に従い偽って敗走を装い敵を誘い込み、邢珣が背後から奇襲、さらに徐璉・戴徳孺の両翼が左右から挟撃して宸濠軍を撃破、二千余級を討ち取った。

黄石磯の誤殺

八字脳へ退いた宸濠は、地名を尋ねた際に土地言葉の訛りを聞き違え「王失機(自分の敗北を嗤われた)」と誤解して小卒を斬殺してしまう。劉養正の説明でようやく誤解と気づくが、将士の離反を招いた。

再戦と敗走

九江・南康も王守仁方の陳槐・曾嶼らに攻められていると知った宸濠は、劉養正の勧めで重賞を掲げ将士を鼓舞し再戦に臨んだ。一時は官軍を圧したが、伍文定は退却する自軍兵士を斬って督戦し、砲火で鬚を焼かれながらも指揮を崩さず奮戦。宸濠の坐乗する船が砲撃を受けたことで宸濠軍は総崩れとなり、さらに二千余級を討ち取られた。

火攻めによる壊滅

再敗した宸濠は残存の船を連結し方陣を組んで防御を固めたが、王守仁は伍文定に「急用火攻」の四字のみを記した書を送る。伍文定は余恩・邢珣・徐璉・戴徳孺と謀って四方から火矢を放ち、秋風にあおられた炎が宸濠の全船団を包んだ。正妃の婁氏は「殿下が国恩に背いたのは自業自得、私は殿下を見捨てない」と入水し、他の妃嬪も後を追った。宸濠父子は捕らえられ、李士実・劉養正ら丞相・元帥級の首謀者も含め数百人が捕縛された。討ち取った首級は三千余、溺死者は約三万人に上り、九江・南康も奪還された。

宸濠の対面と京師への報告

南昌に凱旋した王守仁の前に引き出された宸濠は許しを乞うたが、守仁は「国法がある」と一蹴した。南昌の民は宸濠の悪政を非難して喝采し、宸濠自身も「婦人の言を信じず紂王と逆のかたちで亡んだ」と婁妃への後悔を口にした。守仁は婁妃の遺骸を手厚く葬らせ、宸濠の私信類は焼き捨てて詮索を避けた。守仁は南巡を諫め宸濠の即時処断を求める上奏を送ったが、武宗はこれを聞き入れなかった。

讒言と守仁の苦難

太監の張忠・安辺伯の許泰らは守仁を「もと逆に通じていた」と讒言し、さらに宸濠を鄱陽湖に放って武宗自らが「捕らえる」演出をさせようと守仁に持ちかけたが、守仁はこれを拒み、独断で宸濠を護送に出た。途上、張忠・許泰の一党に阻まれたため道を変えて浙江経由で護送。杭州で太監の張永と面会し、劉瑾誅殺の功を称えつつ江西の惨状を訴え、京軍の追加徴発を諫めるよう依頼した。張永は武宗周辺の讒言の構造を認めつつも慎重に対応することを約し、宸濠の身柄を預かって自ら護送を引き受けた。

武宗との対面と守仁の処遇

張永は南京の武宗に守仁の忠勤と張忠・許泰らの偽りを訴え、武宗もようやく事情を理解した。それでも張忠は守仁を召しても来ないだろうと讒言し、実際に守仁が龍江まで参上した際も張忠に謁見を阻まれ、憤った守仁は官服を脱ぎ九華山に隠棲してしまう。張永の再度の弁護により武宗は守仁を呼び戻して江西巡撫に留任させ、伍文定・邢珣も昇進させた。守仁は武宗の顔を立てるため、上奏文を「威武大将軍の方略により賊を平定した」と書き改め、寵臣たちの名も功労者として列挙し、江彬らの不満を鎮めた。武宗は南京郊外に広場を設け威武大将軍の旗を掲げ、宸濠を一旦解き放ってから改めて自ら太鼓を打ち縛らせるという茶番の「凱旋の儀」を演じた。

評語

末尾の詩は、国家の大事を児戯のように扱い、驕慢のあまり狂気に等しい振る舞いに至った武宗を批判し、囚人をわざと放って改めて縛り太鼓を打ち鳴らして威武を誇る様は、後世の笑い草に過ぎないと評している。