明史演義第四十六回 檻車に入り叛藩計に中る/菜廠に縛られ逆奄辜に伏す (入檻車叛藩中計 縛菜廠逆閹伏辜)
安化王寘鐇の挙兵
太祖の血を引く安化王寘鐇は術士や女巫の予言に浮かれ、指揮周昂・千戸何錦・丁広らを腹心とした。正徳五年、劉瑾の派遣した周東が寧夏で過酷な増徴を行い、巡撫安惟学も横暴を極めたため兵民の怨みが極まった。諸生孫景文の勧めで寘鐇は挙兵を決意し、宴席と称して総兵姜漢・巡撫安惟学・周東らを謀殺し、劉瑾・張綵らの罪状を掲げる檄文を発して蜂起した。
仇鉞の反間計と乱の平定
朝廷は游撃将軍仇鉞に討伐を命じたが、仇鉞は病と称して寘鐇側に取り入り、兵符を渡すふりをして油断させた。密かに保勛・曹雄らと連絡を取り、寘鐇に「官軍が河東に集結した」と偽って何錦らを渡河阻止に向かわせ、城内の守りを手薄にさせた。仇鉞は寝室に来た周昂を壮士に撃殺させ、自ら兵を率いて城内に突入し、孫景文や寘鐇を捕縛した。何錦・丁広・張欽らも賀蘭山で捕らえられ、乱はわずか十八日で鎮圧された。
楊一清と張永の密約
朝廷は楊一清を起用して張永とともに寧夏鎮撫に向かわせた。楊一清は張永に劉瑾誅殺を説き、劉瑾がかつて張永ら八虎の仲間でありながら専権後は疎んじていたことを突いた。張永は逡巡しつつも決意し、寘鐇の偽檄と劉瑾の不法十七か条を武宗に訴える策を練った。
劉瑾の失脚
献俘の日、張永は宴席の後に武宗へ劉瑾の謀反十七か条を訴えた。武宗は当初取り合わなかったが、太監馬永成の報告もあって決断し、その夜のうちに禁兵を率いて劉瑾を捕らえさせ、菜廠に監禁した。翌日、武宗自ら劉瑾邸を捜索させると、金銀財宝のほか八爪金龍袍・蟒衣・弓弩・匕首を仕込んだ扇など謀反の証拠が続々と発見された。廷訊では駙馬都尉蔡震が敢然と劉瑾を叱責し、その頬を打たせて自白させた。劉瑾は磔刑に処され、一族十五人も伏誅、都人はその肉を争って買い求めたという。
焦芳・張綵の末路
劉瑾の従孫二漢は臨刑に際し、真の元凶は焦芳・張綵であると訴えた。張綵は獄中で死に、屍は磔にされた。焦芳は除名にとどまったが、その子黄中は父の妾(元は罪人岑濬の家眷)と密通するという醜聞が明るみに出て褫職された。戸部尚書劉璣、兵部侍郎陳震らも劉瑾一味として除名された。
評語
末尾の詩は、悪人には必ず悪報が及ぶという天道を説き、刑場に散った者たちを悼んでいる。功のあった張永らはこの後、恩賞に与ることとなる。