明史演義第三十五回 党奸を誅し景帝極に登る/強敵を却け于謙功を奏す (誅黨奸景帝登極  卻強敵于謙奏功)

英宗被虜の報と京師の動揺

英宗が捕虜となった報が京師に伝わると、蕭維楨・楊善らの帰還者が事実を口ごもりつつも認め、宮廷は騒然となった。孫太后・銭皇后は財宝や名馬をかき集め使者を遣わして贖おうとするが、也先は財物だけを受け取り英宗を手放さない。 朝議では侍講徐珵の南遷論と、尚書胡濙・侍郎于謙の固守論が対立し、于謙が北宋南渡の故事を引いて京師死守を主張、太監興安もこれに賛同したため南遷論は退けられた。孫太后は皇長子見深(二歳)を皇太子に立て、郕王祁鈺を輔政とする詔を発した。

王振一族の誅滅

郕王摂政のもと、廷臣は王振の罪を追及し族誅を求めるが決断がつかない中、指揮馬順が群臣を叱りつけたことに激昂した給事中王竑らが朝廷内で馬順を撲殺、王振一味の毛・王両中官も殴殺される騒動となる。動揺して退こうとする郕王を于謙が支え、都御史陳鎰に命じて王振一族と甥の王山、及びその党与(彭德清以下)を捕らえて処刑・籍没させた。抄没された財宝の膨大さも語られる。

虜中の英宗

也先は妹を英宗に娶わせようとするが、随臣の吳官童や校尉袁彬が巧みに言を左右にして拒み続ける。也先は宣府・大同で英宗を擁して開城を迫るが、守将楊洪・郭登はいずれも拒絶し、都督郭登は密かに奇襲による奪還まで計画する。英宗の虜中生活は表向き丁重に扱われつつも、実質は不自由なものであった。

景帝の即位

郕王祁鈺は都指揮岳謙の伝えた英宗の意向や群臣の勧進、孫太后の允許を受けて即位し(景泰元年)、英宗は太上皇帝と尊称された。

紫荊関の攻防と北京防衛戦

叛宦官の喜寧が也先に献策し、守備の手薄な紫荊関から京師へ迫る策を進言、也先はこれに従い通政使謝澤や守備の孫瑮・韓青らを謀殺して関を突破する。京師では于謙が兵部尚書として全軍を統括し、石亨を起用して九門を固める。徳勝門で伏兵を用いて也先の弟博囉と平章卯那孩を討ち取り、西直門・安定門でも石亨・孫鏜らが奮戦して也先軍を撃退、京師防衛に成功する。

各地の防戦と講和の動き

居庸関の羅通は水を城壁に灌いで氷結させ也先の攻撃を退け、大同では郭登がわずかな兵で也先軍を打ち破るなど、各地で明軍の士気が回復する。叛宦官喜寧は宣府参将楊俊に捕らえられ京師で処刑された。脱脱不花・也先双方から和議・献馬の使者が来るが、于謙は「社稷を重んじ君は軽し」として敵の狡計に乗らぬよう戒め、防備を固めつつ功労者の于謙・石亨らに恩賞を与え、皇太后・生母・皇后の尊号を定めるなど朝儀を整えた。

評語

末尾の詩は、王振が異民族の侵入を招く因を作り、喜寧がその走狗となって国を売ったことを名指しで非難し、悪事の報いは死をもってしても足りぬと厳しく断じている。