明史演義第三十四回 王驥、麓川の蛮を討平す/英宗、土木堡に敗陥す (王驥討平麓川蠻 英宗敗陷土木堡)
王振の専横と粛清
太皇太后張氏の崩御後、司礼監の王振はいよいよ思うままに振る舞うようになり、太祖が宮門に立てた「宦官は朝政に関与すべからず」の鉄牌を密かに撤去し、宅地に智化寺を建てて自らの功徳を誇示した。侍講の劉球は勤学・親政・用人・吏治など十カ条を上奏したが王振を直接弾劾しなかったにもかかわらず、欽天監正の彭德清の讒言によって王振の怒りを買い、投獄の上、錦衣衛指揮馬順の手で密かに惨殺された。劉球の祟りで馬順の従者や息子が相次いで非業の死を遂げたという怪異譚も語られる。 王振の甥王山の色恋沙汰では、都御史王文が拷問で無実の女性に自白を強い、これを見破った大理寺少卿薛瑄が投獄されるが、王振の老僕の取りなしや兵部侍郎王偉の弁護で辛くも死罪を免れた。国子監祭酒李時勉も王振の恨みを買い枷にかけられたが、太学生三千人の嘆願と孫太后の父孫忠の口添えで放免された。 元老の楊士奇・楊溥(東楊楊栄と合わせ「三楊」)が相次いで病没すると王振の専権はいよいよ極まり、内使張環・顧忠、駙馬都尉石璟、大理寺丞羅綺、監察御史李儼、霸州知州張需らが次々と弾圧される一方、光禄寺卿余亨や工部郎中王祐のように迎合して出世する者も現れ、諸大臣が競って王振に賄賂を献じる腐敗ぶりが描かれる。
麓川の役
雲南西境の麓川では、太祖代に一度平定された思倫発の子思任発が父祖の地を回復しようと孟養・木邦を攻め、黔国公沐晟の奏上を受けて明廷は出兵を協議する。王振が武威を示そうと出兵を主張し、都督方政を派遣するが、沐晟との連携の齟齬から方政は孤立して戦死、全軍が壊滅する。 思任発が貢物を献じて謝罪を申し出ても王振は許さず、兵部尚書王驥を総督として蔣貴・李安・劉聚らに十五万の大軍を率いさせ、龍川江・木籠山で思任発の陣営を焼き払い、象陣を打ち破って攻め落とす。思任発は緬甸へ逃走し、蔣貴は定西侯、王驥は靖遠伯に叙せられた。 その後も思任発は緬甸から再侵入を繰り返し、王驥・蔣貴が再征。緬甸に思任発の引き渡しを迫り、最終的に緬酋が思任発とその一族を捕らえて明側に引き渡し、斬首される。子の思機発・思陸もなお孟養を拠点に抵抗を続けたが、王驥は金沙江を境として誓約を交わし撤兵した。正統四年から十四年に及んだ長期の戦役であったと総括される。
東南・西北の擾乱
度重なる出兵で民間には負担が重なり、東南では鄧茂七・葉宗留・陳鑑湖らが「王振誅殺」を名目に相次いで蜂起したが、御史丁瑄や大理寺少卿張驥の討伐・招撫によって鎮圧された。 西北では兀良哈三衛が瓦剌と結んで侵入を繰り返す。瓦剌部長脱歓の死後、子の也先が権勢を握り、朝貢に対する恩賞の削減を不満として大挙して侵入、大同方面で参将呉浩、西寧侯宋瑛、武進伯朱冕らが相次いで戦死した。
土木の変
英宗は王振の勧めで祖宗に倣った親征を決意し、兵部尚書鄺埜・侍郎于謙、吏部尚書王直らの諫止を退けて五十万の大軍を率いて出征する。行軍は王振の独断に振り回され、大同で敗色を悟って撤退を決めるものの、王振は自分の郷里に立ち寄ろうとして時機を逸し、先遣した成国公朱勇の軍は鷂児嶺で伏兵に壊滅させられる。 兵部尚書鄺埜の再三の進言も王振に退けられ、大軍は土木堡で水源を断たれて包囲される。也先の偽りの和議に乗じた奇襲を受けて明軍は総崩れとなり、英国公張輔、駙馬都尉井源、尚書鄺埜・王佐、内閣学士曹鼐ら多数の重臣が討ち死にする。護衛将軍樊忠は王振を鉄槌で撃ち殺すが大勢を覆すことはできず、奮戦の末に戦死。英宗はついに敵中に取り込まれ、捕虜となった。