明史演義第三十三回 太平を享け民と楽を同じくす/権奄を儆め主の為に奸を斥く (享太平與民同樂 儆權閹為主斥奸)
胡后廃位と孫后冊立
宣宗は楊士奇の献策通り胡后に退位を勧め、孫貴妃の子・祁鎮を先に太子に立てた。胡后は表を上げて長安宮に退き、静かな暮らしを選んで静慈仙師の号を賜った。張太后は胡后を憐れみ内廷の席次でも孫后より上に置いたため、孫后は不満を抱いたが太后の意向には逆らえなかった。後に宣宗も己の処置を悔いたという。胡后は英宗正統七年、張太皇太后の崩御を悼んで哭し、翌年に没した。
西苑での君臣の遊楽
宣宗は孫后冊立を祝い西苑(太液池・万歳山などのある禁苑)に群臣を招いて宴を催した。舟遊び、魚とりの余興、詩の唱和など和やかな様子が描かれ、君臣同楽の場となった。
張太后への孝養
張太后の誕生日には、宣宗が自ら太后を奉じて西苑に遊び、祝杯を捧げた。太后は民を思う訓戒を宣宗に与えた。陵参りの際には自ら輦を扶け、農家を訪ねて村婦や耕夫を労い、施しを与えるなど、民情に通じた統治ぶりが強調される。
宣德の治世と趣味
宣宗は南漕の整備、況鍾・趙豫ら能吏の知府登用、于謙・周忱ら巡撫の任用など善政を敷き、太平の世を築いた。詩文や絵画(黒兎図など)を好み、宣紙・箋紙・香炉(宣德炉)・宮扇・磁器の脂粉箱などの工芸を後世に残した。蟋蟀(コオロギ)を好んだ逸話にも触れつつ、政務を怠るほどではなかったと擁護されている。
楊士奇への信任
宣宗が微行で楊士奇邸を訪ねた逸話や、士奇の諫言により盗賊の陰謀が未然に発覚した逸話が語られ、士奇への信任が篤くなった。
宣宗の崩御と英宗の即位
宣德三・五・九年に北辺への巡幸があったが、楊士奇・楊榮の諫めで大規模な遠征は避けられた。夏原吉・金幼孜が病没し、蹇義も老いる中、宣宗は在位十年、三十八歳で崩御。太子祁鎮(九歳)の即位に対し、年少を理由に襄王擁立の噂も立ったが、楊士奇・楊榮は百官を率いて太子を支持し、張太后(太皇太后)も太子擁立を明言して英宗が即位した(正統元年)。
宦官王振の台頭と太皇太后の牽制
新政権では張輔・胡濙ら五大臣が国政を委ねられ、太皇太后は垂簾聴政を退けた。司礼太監の王振は英宗の寵を得て権勢を振るい始め、閲兵と称して兵権を集め、指揮の紀広を取り立てるなど専横の兆しを見せた。兵部尚書王驥・侍郎鄺埜を独断で投獄させ、科道官を杖罰するなど増長したため、太皇太后は王振を厳しく叱責し処刑寸前まで追い詰めたが、英宗と五大臣の哀願で命は助け、以後の国政干与を固く戒めた。
三楊の晩年と王振の再台頭
王振は数年おとなしくしていたが、太皇太后の老病と楊士奇・楊榮の衰えに乗じて再び台頭。後任人事に介入しようとしたが、楊榮の機転で薛瑄・馬愉・曹鼐ら賢人を先に推挙し牽制した。薛瑄は王振への阿諛を拒み、王振の恨みを深めた。三殿修築の落成式に王振だけが招かれなかったことに英宗が気を遣い、異例の宴席への招待を行った。
太皇太后の崩御
正統七年、銭氏が皇后に立てられた。同年十月、太皇太后張氏は危篤に際し楊士奇・楊溥に建文帝実録の編纂や方孝孺遺書禁令の解除などを託したが、上奏半ばで崩御した。王振はこれを喜び、以後ますます専横を強めていく。
評語
末尾の詩は、国を誤るのは奸臣であり権宦の禍はそれ以上だと述べ、三楊が沈黙を守るばかりであったことを嘆き、明朝にはもはや人材がいないのかと批判している。