明史演義第三十二回 交趾を棄て前功を隳つを甘んず/中宮を易え内嬖に心を傾く (棄交趾甘隳前功 易中宮傾心內嬖)
趙王高燧の処遇
趙王高燧も高煦と結んで謀反を企てていたが、高煦が捕らわれると戸部尚書・陳山は高燧も討つよう進言した。楊榮も賛同したが、楊士奇は「太宗の子は三人、今は二人の叔父しか残っていない」と反対し詔の起草を拒んだ。楊溥も同意し、蹇義の取りなしもあって宣宗は高燧討伐を思いとどまった。士奇の進言により群臣の弾劾状を高燧本人に示して自ら処し方を選ばせる形にし、高燧は感謝して護衛を献上、宣德六年に世を去るまで穏やかに過ごした。
交趾での連敗
交趾では陳智・方政が黎利に敗れ、他の反乱も呼応して広がった。成山侯王通が総兵官として派遣されたが、寧橋の戦いで陳洽の慎重論を退けて渡河を強行し、伏兵に大敗。陳洽は力戦の末に自刎した。王通は独断で黎利と和を結び、清化以南の土地を割譲しようとしたが、知州・羅通はこれを拒み城を守った。義安の蔡福は降伏し、鎮城平州の知州・何忠懷は黎利に殺され、昌江も陥落して都指揮の李任・顧福らが自刃、多くの将兵・民が殉節した。
柳升の戦死
朝廷は柳升を総帥に再度援軍を送ったが、柳升は黎利の偽りの和議の書に油断し驕慢に進軍、倒馬坡で橋を落とされ伏兵に包囲されて戦死した。崔聚も敗れ、七万の軍は数千にまで減じて交州へ退いた。黄福も捕らえられたが、民に慕われていたため丁重に送還された。
交趾放棄
王通は黎利と結託し、実在しない「陳暠」を陳氏の後継に立てる偽りの和議を演出して朝廷を欺いた。宣宗は張輔らの反対を押し切り、楊榮・楊士奇の勧めに従って交趾放棄・撤兵を決断。三十年にわたり経営した安南は放棄され、王通・馬騏・山壽らは弾劾されたが宣宗は寛大に処した。その後黎利は「陳暠死去、陳氏絶嗣」と称し自ら監国を名乗り、宣宗はそれを黙認した。
皇后廃立の発端
胡皇后・孫貴妃の並立は当初から火種であった。孫氏は永城主簿の娘で、幼くして彭城伯夫人(張太后の母)に見出され、太孫妃候補となったが、占いにより済寧の胡榮の娘が太孫妃に選ばれ、孫氏は嬪にとどまった。宣宗即位後、孫貴妃は特別に金宝を賜るなど厚遇された。
「皇子」誕生と廃后の画策
宣宗が三十歳になっても嫡子がないことを嘆くと、孫貴妃は懐妊を装った。実際には身重の宮人から生まれた男児を自分の子と偽り、皇子・祁鎮として届け出た。宣宗はこれを信じて立太子を望み、張輔・蹇義・楊榮・夏原吉・楊士奇を召して胡后廃立を諮った。楊士奇は宋仁宗の郭后廃立の故事を挙げて慎重論を唱えたが、楊榮は賛成に回った。
廃后の決定
宣宗が重ねて意見を求めるうち、士奇は「中宮と貴妃の仲は睦まじいので、中宮自ら位を譲る形にすれば名分が立つ」と献策。宣宗はこれを容れ、胡后は自ら譲位を願い出る形で廃后が決まった。
評語
末尾の詩は、身重を装って后位を奪った孫貴妃の詭計を「熊夢(懐妊の瑞夢)幻と成る」と皮肉り、長門宮に去った胡后の悲哀を詠んで、皇恩の不公平を嘆いている。