明史演義第三十一回 二豎軍を監し黎利乱を煽る/六師逆を討ち高煦擒えらる (二豎監軍黎利煽亂 六師討逆高煦成擒)

仁宗の即位と旧臣の登用

仁宗(高熾)は即位して洪熙と改元し、夏原吉・黄淮・楊溥らを釈放して復官させた。夏原吉は賑済や西洋取宝船・雲南交趾の採弁の中止を上奏し、仁宗はこれを容れた。楊榮・金幼孜・楊士奇・黄淮ら東宮の旧臣を要職に進め、内閣の権限は次第に重くなった。

仁宗の人柄

仁宗は太子時代から章奏の内容を重視し文字の誤りを咎めなかった逸話や、堯・湯の仁政を語って太祖に「君主の度量あり」と評された逸話がある。高煦・高燧の讒言にも耐え、即位後は三楊を用いて善政を敷いた。池亭で詠んだ詩や弘文館での経史講論の様子が伝わる。皇后張氏は成祖にも評価された賢婦で、太子時代の仁宗を陰で支えた。

交趾の乱の兆し

交趾では監軍の宦官・馬騏が過酷な貢物徴発を行い民の怨みを買っていた。俄樂県の土官・黎利が挙兵し、平定王を自称して黎石・段莽らを配下に置き各地を侵掠、官軍を破って参政の侯保・馮貴を戦死させた。李彬・陳智が討伐にあたり一旦は鎮圧したが黎利は老撾に逃れた。

山壽の宥和策と黄福召還

後任の監軍・山壽も馬騏同様に貪欲で、黎利から賄賂を受けて朝廷に赦免を働きかけた。仁宗は当初疑ったが、山壽の讒言により交趾を治めていた尚書・黄福を召還した。黄福は十八年にわたり交趾を治め民に慕われており、交人は別れを惜しんだ。

黎利の再蜂起

黄福召還後、黎利は攻勢を強め茶龍州・諒山を陥落させた。将の陳智と方政は不和で対応できず、朝廷は山壽の宥和論に引きずられ征討の機を逸し、黎利の勢力はますます拡大した。

仁宗の崩御と宣宗の即位

仁宗は建文旧臣の赦免や徐欽の爵位回復など善政を行ったが、洪熙元年五月に急病で崩御(在位一年、享年四十八)。皇太子瞻基は漢王高煦の伏兵の噂を恐れず急ぎ帰京し即位(宣宗、宣德と改元)。胡氏を皇后、孫氏を貴妃に立て、楊溥を内閣に加えた。

漢王高煦の反乱

樂安に徙封されていた高煦は仁宗の崩御に乗じて挙兵を図るが機を逸した。宣宗即位後も不穏な動きを続け、密かに武器を製造し兵を集め、山東都指揮の靳榮と結んで済南を落とし挙兵しようとした。御史李濬が密告し、宣宗の使者・侯泰にも高煦は反意をあらわに語った。高煦の上奏文が悖逆であったため、宣宗は楊榮・夏原吉らの進言により自ら親征を決断。

樂安包囲と高煦降伏

宣宗は薛祿らを先鋒に樂安を包囲し、火砲で威圧した。高煦は一旦降伏を申し出て武器や文書を焼却し、王斌の制止を振り切って出城し降伏した。宣宗は群臣の処刑要求を退け、高煦父子を廃庶人として幽閉した(王斌・朱恒らは誅殺)。後年、幽閉先で宣宗を足で転ばせた高煦は、銅缸をかぶせられ炭火で炙り殺された。

評語

末尾の詩は、身の程を知らず強がった高煦の末路を、豆を煮るのに豆殻を燃やす故事(兄弟相克)になぞらえつつ、そもそもの禍根は父・成祖にあったと評している。