明史演義兵を窮め武を黷し数次親征す/命を疲らし師を労し帰途に崩ず(第三 十回 窮兵黷武數次親征 疲命勞師歸途晏駕)
唐賽兒の顛末
山東の官吏は唐賽兒を逃した罪で更迭され、段民が後任となった。段民は捕らえた唐賽兒を尋問し、刃で手足を斬ろうとしたが刃が欠けるばかりで傷つかず、鎖で縛って囚車に載せ京師へ送らせた。ところが道中、巨大な鬼が現れて護送の兵役が逃げ散り、囚車には鎖だけが残されて唐賽兒は消えていた。成祖は不問に付し、捕らえていた尼僧らと柳升を釈放した。唐賽兒の行方は最後まで分からずじまいであった。
阿嚕台・瓦剌との抗争と忽蘭忽失溫の戦い
瓦剌のマハムートが韃靼汗を弑して答里巴を擁立すると、阿嚕台は成祖に助けを求め、成祖は永樂十二年に自ら親征した。忽蘭忽失温でマハムート軍と激突し、当初は苦戦したが成祖自ら鉄騎を率いて突撃し大勝、マハムートを敗走させた。皇太孫瞻基の諫めで深追いはやめた。凱旋後マハムートも一時服従したが、阿嚕台とマハムートは互いに争いを続け、明はどちらにも与せず利用した。
遷都と直言の弾圧
胡族の反覆を懸念した成祖は北京遷都を決断(永樂十九年)。まもなく奉天・謹身・華蓋の三殿が火災に遭い、成祖は群臣に直言を求めたが、遷都反対を唱えた蕭儀は誅殺され、李時勉は投獄、他の諫言者も左遷された。北征の再議に際し、兵部尚書方賓・戸部尚書夏原吉が兵糧の窮乏を理由に反対すると、成祖は激怒し、方賓は自殺、夏原吉と刑部尚書呉中は投獄された。
阿嚕台親征・兀良哈討伐
翌春、成祖は再び親征し阿嚕台を追ったが敵は遁走を繰り返した。西涼亭で元の廃墟を見て感慨を述べ、伐木を禁じた。阿嚕台の詐計を見破って敵の誘いに乗らず、家族を捨てて逃げた阿嚕台の窮状を知った。帰路、大寧の地に拠る兀良哈三衛(阿嚕台と結んでいた朵顏・泰寧・福餘の三衛)を討ち、伏兵の計で大勝して巣穴を焼き払った。
韃靼王子の投降
翌年、また阿嚕台の侵犯報に接し親征。途上、阿嚕台配下の阿失帖木兒らが投降し敵の衰勢を伝えた。韃靼の王子・也先土于が妻子を連れて投降し、忠勇王・金忠の名を賜った。
成祖崩御
永樂二十二年、再度阿嚕台討伐に赴くも、答蘭納木兒河まで進んでも敵影はなく、遺骸の埋葬などを行って引き返した。清水源で石崖に紀功の銘を刻ませ、帰路に体調を崩し、榆木川に至って崩御。享年六十五。張輔・楊榮・金幼孜は軍中での混乱を避けるため喪を秘して遺骸を護送し、皇太子高熾(仁宗)に伝えて即位させた。廟号は太宗(後に成祖と改称)。
評語
末尾の詩は、遠征に明け暮れ財も兵も疲弊させた成祖の生涯を評し、沙邱で客死した秦始皇の故事になぞらえて、英雄も最期を恐れるものだと詠んでいる。