明史演義第二十九回 楽安に徙り皇子罪を得る/蒲台に鬧ぎ妖婦竿を掲ぐ (徙樂安皇子得罪 鬧蒲台妖婦揭竿)
徐皇后の内助と没後の後継問題
成祖が南から戻る途中、寵妃の権氏が病死し深く哀しんだ。話は遡り、徐皇后は賢淑な人柄で成祖をよく補佐し、諫言の多くが用いられた。命婦を召しては夫への諫言を怠らぬよう説き、『内訓』二十篇や『勧善書』を編んで天下に頒布した。永樂五年に病没すると成祖は大いに悲しみ、仁孝皇后と追諡した。妹の妙錦は後継の后にと望まれたが固辞し、削髪して尼となった。成祖は後継の后を立てず、王貴妃に六宮の事を任せた。
権妃の寵愛と早世
朝鮮からの貢女の中に権氏がおり、容姿・技芸に優れ玉簫を能くしたため成祖の寵を得て賢妃に冊立された。北征に同行したが凱旋の途上、暑気に当たり臨城県で急逝した。成祖は嶧県に葬り自ら祭った。その後も朝鮮から選んだ任順妃ら四人を寵愛したが、権妃には及ばなかった。
節を守った女官・王氏
海南出身の女官王氏は成祖の寵を辞退し節を通したため、金幣を賜り帰郷を許された。宮中で詠んだ詩が伝わっている。
漢王高煦の野心
成祖の次男・高煦は雲南への封を嫌って北京に留まり、護衛を増やし秦王李世民を気取る発言をするなど奪嫡の意欲を隠さなかった。太子高熾が足の病で難儀する場に同行した際、高煦は「前人蹉跌、後人知警」と当てこすったが、太孫瞻基に切り返された。太子の賢明さや徐后の遺命による王貴妃の庇護、太子妃張氏の孝謹により儲位は保たれた。
解縉の獄死と黄淮らの受難
高煦は侍読の解縉を讒言し、成祖は解縉を左遷、さらに投獄させた。解縉は太子に累が及ばぬよう自ら罪を認めたが、獄中で凍死させられた。連座した官吏も獄死した。編修の黄淮も太子擁立に関わったため高煦に狙われたが、都御史陳瑛が別件で誅殺されたことで高煦は片腕を失った。太子監国の際にも高煦の讒言で黄淮・楊溥が投獄されたが、兵部尚書金忠の身命を賭した弁護で太子は禍を免れた。黄淮・楊溥は成祖の代を通じて獄中に留め置かれた。
高煦、樂安へ徙封される
高煦はさらに驕り、私兵を養い、兵馬指揮の徐野驢を殺害するなど専横を極めた。楊士奇の諫言もあり、成祖は高煦の不法な武器製造や船の演習を知って激怒し、廃庶人にしかけたが太子の取りなしで護衛を削り左右数人を誅殺のうえ、山東の樂安州へ徙封するにとどめた。
内政・治水と対倭政策
成祖は宋礼らに会通河・黄河故道の浚渫を命じ、陳瑄に海門の堤防を築かせ、寶山に土山を築造するなど内政を整えた。沿海では倭寇(元来日本の南朝勢力に由来)の侵掠が続いたが、日本の足利義満が入貢し日本国王に封じられた後も海賊は絶えず、柳升・陳瑄・劉江らが撃退に功を挙げた。
貴州の内乱平定
思州の田宗鼎と思南の田琛が抗争したため、成祖は鎮遠侯顧成に密命して両者を捕らえ処刑し、貴州を八府四州に再編して布政使司・提刑按察使司を設置した。
唐賽兒の乱
永樂十八年、山東蒲台県で唐賽兒という女が乱を起こした。夫の死後、山中で得た異書・宝剣により妖術を身につけたと称し、仏母を名乗って信徒数万を集めた。捕吏に抵抗して官兵を破り、益都の卸石棚寨に拠って挙兵。董彥杲・賓鴻らが従い、益都・諸城など多州県を陥落させた。青州衛指揮の高鳳は妖術まがいの奇怪な現象に遭って軍が崩れ戦死、莒州の招撫も拒絶された。
評語(末尾の詩)
篝火に狐が鳴き天地が暮れる、というような不穏な情景を詠み、乱の禍々しさを暗示している。
官軍の反撃
成祖は柳升・劉忠に禁衛軍を率いさせ討伐に向かわせた。柳升は妖術を恐れず、豚・羊・犬の血などの穢れ物を用意して唐賽兒の幻術を打ち破り、寨に追い詰めた。しかし降伏を装った敵の夜襲で劉忠が戦死し、柳升が救援に向かった隙に唐賽兒らは寨を脱出して姿を消した。安邱では衛青らが賓鴻を撃破したが、柳升の指揮の乱れを刑部尚書呉中に弾劾され下獄となった。各地で尼・道姑を大量に捕らえて詮議したが、いずれも偽の唐賽兒であった。やがて「本物の唐賽兒を捕らえた」との報が届き、朝廷は喜んだが、真偽は次回に持ち越される。