明史演義第一十四回 四海心を帰し帝位に登る/三軍命を効し元都を突く (四海歸心誕登帝位 三軍效命直搗元都)
楊璟らの両広平定
- 楊璟・周德興・張彬らは湖広から進軍し永州に至る。守将鄧祖勝は敗れて籠城し、援軍に来た元の全州平章阿思蘭も撃退される。楊璟は西江に浮橋を架けて城を攻め、数十日で城中の食糧が尽き、鄧祖勝は服毒死し永州は陥落。続いて全州も落ちた。
- 廖永忠は福建平定後、贛州の陸仲亨と合流して広東へ進出。元の左丞何真は印章を差し出して帰順し、呉王(太祖)は彼を厚遇するよう命じた。永忠は東莞で何真を出迎え、丁重にもてなして応天へ送る一方、自らは広州へ進んだ。降伏を偽った元の参政邵宗愚は永忠に見破られ、夜襲されて斬られた。
- 朱亮祖と合流して梧州に入り、元の吏部尚書普顏帖木兒を討ち、藤州の守将吳鏞も降伏。潯州・桂林・鬱林も次々陥落し、海南・海北の元将も帰順した。
- 楊璟・周德興・張彬らは靖江を数十日攻めても落とせなかったが、朱亮祖も加わり総攻撃。西江の濠水を抜いて土堤を築き、猛攻の末に外城を落とす。内城の元平章也兒吉尼はなお抵抗したが、万戸皮彥高・楊天壽が捕らえられ、内応した総制張榮の手引きで楊璟軍は城内に入城。也兒吉尼は朱亮祖に捕らえられた。楊璟は殺戮を禁じ、民心を安んじた。
- その後、郴州へ進み両江の土官らを降し、廖永忠も賓州・象州を攻略。元平章阿思蘭も帰順し、両広は平定された。この年は元の至正二十八年、すなわち明の太祖洪武元年にあたる。
太祖の即位
- 方国珍降伏後、李善長らは再三即位を勧め、太祖はついに受け入れた。劉基が吉日を選び、戊申年正月四日に南郊で天地を祭り、即位の礼を行うこととなった。
- 当日、太祖自ら壇に登り、劉基が祝文を代読。祝文は、群雄割拠で天下が乱れる中、太祖が淮河に興り万民を救った経緯を述べ、国号を「大明」、元号を「洪武」と定めたことを天地に告げる内容であった。
- 儀式の日は晴れわたり、人々は瑞兆と喜んだ。李善長ら百官・都城の父老は万歳を唱えた。太祖は宗廟に祭告し、祖先を追尊(曾祖父を徳祖、祖父を懿祖、父を仁祖など)。馬氏を皇后に、世子標を皇太子に立て、李善長・徐達を左右丞相、劉基を御史中丞兼太史令とし、功臣にはそれぞれ爵位を進めた。ここに明朝が正式に成立し、太祖と呼ばれることとなった。
太祖と馬皇后の睦言
- 退朝後、太祖は馬皇后に、貧しかった頃の苦労と皇后の支えへの感謝を語った。皇后は「夫婦が助け合うのは易しいが、君臣が助け合うのは難しい。陛下が私との貧賎の日々を忘れないように、群臣との苦労も忘れないでほしい」と諭した。太祖が皇后の身内に爵位を与えようとすると、皇后は「爵禄は賢者に与えるもの、私情で外戚に与えるべきではない」と辞退した。
即位後の施政
- 即位の詔を天下に頒布し、伯父以上を王に追封。皇后の父母にも王・王夫人の号を追贈し廟を建てて祭った。国学で孔子を祀り、衣冠制度を唐制に倣わせ、后妃の政治関与を戒め、賢才を求め地方への私的献上を禁じるなど、諸政を次々に整えた。
徐達・常遇春らの山東平定
- 徐達・常遇春は山東へ進軍し、沂州で義兵都元帥王宣に降伏を勧告。王宣の子王信はいったん帰順を装いつつ、密かに兵を集めて明軍を襲う計画を立てたが、使者唐臣が難を逃れて発覚。徐達は馮勝に命じて城を水攻めにし、王宣は降伏。しかし王信は使者を殺して抵抗を続けたため、徐達は王宣を斬った。王信は山西へ逃走。
- 周辺の県が次々帰順し、益都路では元の宣慰使普顏不花が力戦の末捕らえられ、屈せず殺された。その妻子も入水して殉じ、忠節の例として称えられた。
- 東平・東阿・済南・済寧・莱陽なども次々陥落し、常遇春は東昌を、徐達は楽安を平定。山東全域が明の支配下に入った。
河南平定と李克彝の降伏
- 徐達は河南へ移り常遇春と合流。永城・帰徳・許州を経て陳橋に進む。汴梁の守将李克彝は左君弼・竹昌らと連携して抵抗した。太祖は左君弼の母妻を捕らえた上で、帰順を促す書簡を送った。
- 母子の対面を経て左君弼は心動かされ、竹昌とともに徐達軍に降伏。孤立した李克彝は汴梁を放棄して逃走し、徐達は無血で汴梁を占領した。
- さらに塔児湾で元将脱目帖木児の五万の軍と対決。常遇春が奮戦して敵将を射斃し、敵を潰走させた。河南行省平章の梁王阿魯温も開城降伏し、嵩・陝・陳・汝の諸州も平定された。
元都攻略の計画と潼関攻略
- 河南平定を受け太祖は汴梁に至り、徐達と元都攻略を協議。徐達は「元の声援はすでに絶えている、今こそ進撃すべき」と進言。太祖は騎兵を先鋒に、水陸両軍で山東の兵糧を利用しつつ北進する策を示し、馮勝には潼関攻略を命じた。
- 馮勝は夜襲の火計で元将張良弼の陣を混乱させ、混戦の隙に潼関を突破。李思齊・張良弼は逃走し、馮勝は華州まで進んで太祖の命により汴梁へ引き返した。
元都陥落
- 潼関攻略の報を受け太祖は応天へ帰還、徐達に元都攻略を命じ、殺戮を禁じた。徐達は諸将を集め河北を進み、衛輝・彰德・広平・臨清を落とし、水陸並進で長蘆・直沽へ進んだ。元丞相也速は戦わず逃走。
- 通州では郭英の計略で元の知枢密院事卜顏帖木児軍を伏兵で挟撃し、卜顏帖木児を捕らえて斬首。徐達はさらに元都へ進撃したが、元順帝はすでに北へ逃亡しており、淮王帖木児不花・左丞相慶童らのみが留まっていた。
評語
作者は元順帝の暗愚と、蒙古がかつての強盛から急速に衰亡した様を詩に詠み嘆いている。