明史演義第一十五回 太原を襲い拡廓計に中る/臨洮を略し李思斉降を出す (襲太原元擴廓中計 略臨洮李思齊出降)
元都陥落と北京の統治
- 通州陥落を知った元順帝は動揺し、三宮の后妃・太子愛猷識理達臘を伴い北へ逃れる準備をした。左丞相失烈門らは籠城を進言したが、順帝は聞き入れず、夜半に建徳門を開いて出奔。淮王帖木児不花に監国を託した。
- 徐達は斉化門を突破し入城。淮王帖木児不花・左丞相慶童・平章迭児必失朴賽不花・右丞相張康伯・御史中丞満川らに降伏を勧めたが応じなかったため処刑。宦官伯顏不花はすでに自害していた。徐達は府庫・図籍・宝物を封じ、宮中への侵入を禁じ、軍紀を厳しく守らせて民を安堵させた。
- 太祖は勝報を喜び、応天を南京、開封を北京と定め、六部の官制を整備。後に胡惟庸の失脚を機に中書省・丞相を廃し、五軍都督府と都察院を設けることとなる(後日談)。
太祖の北巡
- 太祖は李善長・劉基に留守を託し、自ら北京へ巡幸。元の旧臣馬昱に元朝滅亡の理由を問うと「寛大さゆえに国を失った」と答えたが、太祖は「元の滅亡は縦弛(統制の緩み)によるもので、寛大さそのものが原因ではない」と正した。元の宮人を解放するなど処置を施し、徐達・常遇春に山西攻略を命じて南京へ帰った。
太原攻略
- 徐達は諸将と分道して西征。楊璟・張彬らは澤州で元将楊札児に苦戦し敗走したが、徐達は北平を孫興祖・華雲龍に守らせ、自ら太原へ向かった。
- 元順帝の赦免で復権した擴廓帖木児が北平を狙って進軍中との報に、諸将は援軍を求めたが、徐達は「王保保が遠征している隙に太原の空虚を突く」策を選択。果たして擴廓は太原へ引き返し明軍と交戦したが、郭英・常遇春の夜襲で大混乱に陥り、擴廓は靴も履かずわずか十八騎で北へ逃走。四万の兵馬が降伏した。
- 実は擴廓配下の将・豁鼻馬が密かに徐達と内通しており、これが夜襲成功の要因であった。太原は陥落し、大同や猗氏・平陽などの諸県も次々平定され、山西は全て明の支配下に入った。
功臣廟と元史編纂
- 洪武二年、太祖は功臣の序列を定め、雞籠山に功臣廟を建立。徐達を筆頭に常遇春・李文忠・鄧愈・湯和・沐英ら二十一人が祀られた(既に故人の者は像を祀り、存命者の席も設けた)。
- 廖永安・俞通海・張徳勝・桑世傑・耿再成・胡大海・趙徳勝の七人は太廟に配享。元都攻略で得た元朝歴代の実録をもとに元史編纂を命じ、李善長を監修、宋濂・王禕を総裁とし、隠士十六人を起用して半年で完成させた(順帝分は翌年追加編纂)。
関陝平定
- 徐達は関陝攻略へ進む。李思齊は鳳翔に拠って抗戦の構えだったが、太祖の説得の書簡に心動かされる。だが養子趙琦が反対し、思齊は決断できずにいた。
- 徐達は奉元へ進撃。張良弼・孔興・脱列伯らは戦わず逃走し、奉元の守将哈麻図も敗走の末殺された。関中の飢饉に対し徐達は太祖の命で米を配り民心を得た。
- 常遇春は鳳翔を攻略、李思齊は趙琦の勧めで臨洮へ逃れた。徐達は諸将の慶陽先攻策を退け、「臨洮は西域と通じ根を張られると厄介」として先に臨洮を攻める方針を採用。馮勝が臨洮を包囲すると、趙琦が財宝を盗んで逃亡したため、李思齊はついに開城降伏した。
慶陽攻防と常遇春の急死の予兆
- 李思齊は南京へ送られ厚遇された。太祖は張良弼兄弟の狡猾さに注意しつつ慶陽攻略を命令。徐達は平涼を落とし、張良弼は寧夏へ逃れる途中で擴廓軍に捕らえられた。弟の張良臣は慶陽を明に降したが、密かに夜襲を企て、薛顯軍に打撃を与えた。
- 徐達は諸将を四方に配して慶陽を包囲。援軍に来た擴廓配下の韓札児を馮勝が撃退し、包囲を継続した。
- 一方、常遇春・李文忠は北平から北進し、錦州・大興州・開平を次々攻略。元順帝は開平からさらに逃走した。常遇春は元宗王慶生らを捕らえ薊北を平定して凱旋したが、慶陽への帰途、柳河川で突然の病に倒れ、以前治った矢傷まで悪化。自らの死期を悟り、李文忠を呼んで軍務を託した。