明史演義第一十三回 北方に檄し徐元帥進兵す/南閩を下し陳平章節に死す (檄北方徐元帥進兵 下南閩陳平章死節)

張士誠一族の最期

  • 士誠の妻・劉氏は齊雲樓に住んでいたが、城陥落に際し養子の辰保に楼下へ薪を積ませて火を放ち、幼子を乳母に託して逃した上、群妾侍女もろとも焼死し、自らも縊死した。
  • 士誠は室内で自ら首を吊ったが、徐達の命で説得に来た李伯昇に見つかり、いったんは救出されて息を吹き返した。潘元紹の説得にも応じず、応天へ護送される船上でも飲食も言葉も拒み続け、中書省で李善長の説諭にも悪態をつき、隙をついて再び首を吊って死んだ。至正十三年の挙兵から二十四年の呉王僭称、二十七年の縊死までの経緯が語られる。降将の多くは赦免されたが、裏切った熊天瑞は処刑された。呉・会一帯は平定され平江は蘇州府と改められ、李善長は宣國公、徐達は信國公、常遇春は鄂國公にそれぞれ封じられた。

韓林兒の死と国号制定

  • 平江陥落前、元璋は廖永忠を遣わして滁州から韓林兒を応天へ迎えようとしたが、諸将が林兒を帝として奉じようとする中、劉基だけは反対した。林兒は瓜歩で急死し、劉基が密かに廖永忠に舟を沈めさせたとの噂もあるが真偽は不明である。元璋は林兒を弔い、龍鳳の年号を廃して呉元年と改め、宗廟社稷を立て宮室を建て、楽律・科挙制度を定めた。平江平定後、江東はほぼ平定され、正規軍で中原を、別動隊で南方を攻略する方針を固めた。

元朝内部の混乱

  • 元の丞相脱脱は雲南で失脚死し、河北の大半は混乱の中にあったが、察罕帖木兒が関陝で挙兵し華北を平定した。元璋は使者を送って通好を図ったが実らず、察罕は降将の田豐に殺害され、その養子・王保保(擴廓帖木兒)が跡を継ぎ田豐を討ち取った。擴廓は元璋に帰順を勧めたが元璋は拒んだ。
  • 元朝内部では擴廓と河南平章の孛羅帖木兒が対立し、孛羅は挙兵して太子・愛猷識理達臘を追い皇后奇氏を幽閉したが、威順王和尚の刺客に討たれた。擴廓は太子を都へ戻し河南王に封じられたが、関中の四将軍(李思齊・張良弼・孔興・脫列伯)が同盟してこれに抗し、擴廓との対立が長期化した。順帝も太子も擴廓を疎み官職と兵権を奪ったため、擴廓は太原に拠って抗命した。

北伐の檄文

  • こうした元朝の混乱に乗じ、応天は徐達を征虜大将軍、常遇春を副将軍として二十五万の兵で北伐を開始した。斉・魯・河・洛・燕・薊・秦・晉に発した檄文では、元の統治が天命によるものであったが、歴代の失政(廃長立幼、臣が君を弑する、倫理の乱れなど)により天下の人心が離れたこと、自らは淮右の一布人ながら十三年で南方を平定したこと、これより北伐して民を塗炭の苦しみから救い漢官の威儀を回復すること、軍紀は厳正で民を害さないので逃げ隠れする必要はないことなどが述べられた。

北伐の作戦方針と諸方面軍

  • 常遇春は元の都を直撃すべきと主張したが、元璋は「まず山東、次いで河南、潼関を取って元都を孤立させ、その後に雲中・太原・関隴を平定する」という段階的な方針を採用し、諸将も賛同した。徐達・常遇春は山東方面へ、湯和・呉楨は方國珍討伐へ、胡廷美(廷瑞を元璋の諱を避け改名)・何文輝は福建攻略へ、楊璟・周德興・張彬は広西方面へと四路に分かれて進軍することとなった。

方国珍の帰順

  • 元璋に貢物を送りながらも隙あらば領地を広げていた方國珍は、元璋の使者の説得にも支吾を続け、温州への進軍後も詭弁を弄して従わなかった。杭州平定後も態度を改めず、湯和・吳楨の南征軍が餘姚・上虞を無血で従え慶元を包囲すると、内応によって城が開かれ孤立無援となり、船で逃亡した。
  • 湯和は定海・慈溪などを平定し、廖永忠の海路来援と合流して国珍を挟撃、国珍は台州・温州も次々に失い窮地に陥った末、印章・銀銭を献上し、子の明完に哀切な上表文(自らの非を認めつつ寛大な処置を懇願する内容)を捧げさせて降伏した。
  • 元璋は当初怒っていたが、上表文の情に打たれて許し、「投降の誠意を誠意として受け止め、過去は問わない」と伝えた。国珍は湯和の陣を経て応天で謁見し、叱責を受けつつも赦され、のちに厚遇されて京師で善終を得た。

陳友定の抵抗と福建平定

  • 湯和らは海路から福建の胡廷美軍と合流を図った。福建は元の福建行省平章・陳友定が拠っており、かつて処州で参軍の胡深を破り殺害した経緯があった(胡深の死に際し天変が現れ、劉基が「東南で大将を失う」と予言していたことが的中したという)。
  • 胡廷美軍は光澤・邵武・建陽を陥として建寧に迫った。友定は使者を殺して抗戦を誓い、湯和らは海路から福州を攻め、守将曲出らを破って包囲、内応により南門が開かれ陥落した。城内では鄧益が戦死、尹克仁が入水自殺、伯鐵木兒が妻子を殺し自邸に放火して自刎するなど凄惨な最期が相次いだ。湯和は福州入城後、興化・莆田など十三県を平定した。
  • 胡廷美・何文輝も建寧を落とし延平に迫った。友定は籠城持久策を取り兵に過酷な不寝番を強いたため部下の不満が高まり、部将の裏切りや内応の末に延平は陥落した。友定は毒を仰いで自尽を図り、なお息があったところを捕らえられ、子の海と共に応天へ送られた。元璋の詰問に友定は「殺すなら殺せ」と一言も屈せず、父子とも処刑された(後世、その忠烈を讃える詩が伝えられる)。
  • 友定の死後、汀・泉・漳・潮の諸郡も相次いで降伏し、福建は平定された。