明史演義第一十二回 武昌を取り師を東下す/平江を失い一族自焚す (取武昌移師東下  失平江闔室自焚)

高冠山攻略と刺客の失敗

  • 武昌の包囲が長引く中、元璋は現地視察に赴き、城東の高冠山が漢軍の要害になっていると見抜いて奪取を諸将に諮った。傅友德が名乗り出て五百の精鋭を率い夜襲、二本の矢を受けながらも山を奪い、城内を一望できるようになった。
  • 城将の陳英傑はこれに憤り、夜陰に紛れて呉軍の中軍帳へ刺客として侵入したが、元璋の呼び声で駆けつけた郭英に一撃で討ち取られた。元璋は自らの錦袍を郭英に与え「わが尉遅敬德だ」と讃えた。

張必先の捕縛と陳理の降伏

  • 援軍として来た岳州守将の張必先(勇猛で知られ「潑張」の異名を持つ)を常遇春が計略で生け捕りにした。元璋はこれを城下に引き出して降伏を促し、守将の張定邊も言葉を失った。
  • 元璋は降将の羅復仁を城内に送り、陳理に降伏を勧めさせた。陳理は年少ながら降伏を決め、璧を捧げ肉袒して張定邊らと共に投降した。元璋は震える陳理を自ら助け起こし、罪を問わないことを告げ、蓄えを与え、飢えた城民には米を配って歓迎された。漢陽・淝・荊・岳の諸郡も次々に帰順した。
  • 湖廣行中書省を設置して楊璟に守らせ、陳理を伴い応天へ戻って歸德侯に封じた。友諒の贅沢な鏤金牀は「蜀の孟昶の宝器と同じ、無用の物」として破棄させ、鄱陽湖康郎山と南昌に戦没将士の祠を建てた。

張士誠の驕りと淮東平定

  • 元璋の西征に乗じて張士誠は勢力を拡大し、南は紹興、北は通泰・高郵・淮安・濠泗、東北は済寧に及んだ。元朝への王号要求が拒まれると自ら呉王を称し、弟の張士信を左丞相、娘婿の潘元紹を参謀に任じたが、士信は放蕩に耽り佞臣(王敬夫・葉德新・蔡彥夫)を重用して政治は乱れた(当時「丞相は王・蔡・葉ばかり重用し、いずれ干からびる」という趣旨の風刺歌が兵の間で歌われていたという)。
  • 元璋は徐達・常遇春に淮東攻略を命じ、江陰では士誠の水軍を元璋自ら加勢して撃破、高郵・淮安を陥落させ、淮安守将の梅思祖は降伏、興化も攻略して淮東を平定した。

濠州攻略と帰郷

  • 士誠配下の李濟が守っていた濠州を韓政・顧時らが攻め、雲梯や砲石で城壁を破ると李濟は開城降伏した。元璋は郷里に凱旋して墓参りし、守塚二十家を置き、旧知に品を賜り、父老を招いて宴を開き、子弟の教育と善良な風俗を望む旨を伝え、租税を免除した。

平江(士誠)攻めの布陣と湖州攻略

  • 応天に戻った元璋は徐達を大将軍、常遇春を副将軍として二十万の兵で張士誠討伐を命じ、「妄りに殺すな、掠奪するな、墳墓を暴くな、家屋を焼くな、士誠の母の墓を壊すな」と厳命した。
  • 常遇春が直接平江(蘇州)を攻めるべきと進言したのに対し、元璋は「士誠の盟友である張天麒(湖州)・潘元紹(杭州)がまず湖州・杭州から羽翼として救援に来る、先にこれを断つべき」と判断し、湖州を先に攻める作戦を立てた。また降将熊天瑞に偽の情報(平江直撃)を掴ませて敵に流させる計略も仕込んだ。李文忠には杭州、華雲龍には嘉興を同時に攻めさせ牽制した。
  • 徐達・常遇春は湖州へ進撃し連戦連勝、張天麒配下の黄寶を常遇春が生け捕り、援軍の李伯昇が入城してようやく持ちこたえたが、士誠の援軍(呂珍・朱暹・「五太子」ら六万)との攻防でも常遇春が姑嫂橋に十塁を築いて対抗し、敵の兵糧線を襲撃、徐志堅を生け捕り、赤龍船を焼き払うなど各個撃破を重ねた。最終的に五太子・呂珍・朱暹は降伏を申し出、李伯昇・張天麒も開城し、湖州は陥落した。

杭州・嘉興・平江包囲

  • 湖州陥落に動揺した士誠は、杭州(潘原明が李文忠に降伏)、嘉興(宋興が華雲龍に降伏)、吳江も次々に失い、援軍の竇義も鮎魚口で大敗して千余艘の船を失った。
  • 徐達ら諸将は平江城を八方から包囲し(葑門・虎邱・婁門・胥門・閶門・盤門・西門・北門・東北・西南・西北の各方面)、士誠は自ら城壁から包囲網を見て動揺した。士誠が寵愛する精鋭「十条龍」の奮戦で攻城は難航し、俞通海も攻撃中に矢を受け重傷を負い、応天へ送られたが数日後に没した。元璋は士誠へ竇融・銭俶の故事(降伏後の厚遇)を引いて降伏を勧める書を送ったが返答はなかった。

沙盆潭の敗戦と密使の説得

  • 士誠は徐義・潘元紹らに勇勝軍を率いさせ常遇春の陣を奇襲させたが、常遇春・王弼が撃退し、自ら出陣した士誠も沙盆潭に落馬して溺れかけ、救援に下りた「十条龍」のうち九人が死んだ。士誠は帰城して慟哭した。
  • ある客(実は李伯昇が送った説客)が士誠に「項羽も天命には勝てなかった、湖州・嘉興・杭州を次々失った今、無駄死にせず天命に従い早く手を打つべきだ、応天からの降伏の申し出(竇融・銭俶の待遇)を受ければ万戸侯として生き残れる」と説いたが、士誠は考えあぐねた末に降伏を拒んだ。

平江陥落

  • 士誠は再び出撃するも常遇春に撃退され、弟の張士信は砲弾で頭を撃たれ即死した。熊天瑞は木石が尽きて祠堂や民家を壊して砲弾代わりに用いるほど抵抗を続けたが、徐達は木造の掩体を組んで矢石を防ぎながら攻め、ついに葑門を突破、常遇春も閶門を破り、守将の唐傑・周仁・徐義・潘元紹らは次々に降伏した。
  • 士誠は残兵二三万をかき集めて万寿寺東街で最後の防戦を試みたがまもなく潰走し、内城へ逃げ込んだ。徐達らが突入すると、士誠の宮殿は猛火に包まれていた。

評語

群雄が天下を争う中で機を逸すれば国は自ら傾く、成敗の分かれ目はわずかな判断の差に過ぎず、宮殿が自ら焼け落ちたことの哀れさを詠む詩が付されている。士誠の宮殿がなぜ炎上したかは次回で明らかにされる。