明史演義第一十一回 鄱陽湖に友諒身を亡ぼす/応天府に呉王即位す (鄱陽湖友諒亡身 應天府吳王即位)
張定邊の敗走と劉基への呼び戻し
- 張定邊に矢を射たのは元璋配下の常遇春であった。定邊は負傷し、俞通海らの加勢も加わったため退却した。折しも川の水勢が増して元璋の座船が動けるようになり、元璋は俞通海・廖永忠に定邊を追わせたが、定邊は多数の矢を受けながらも軽舟で逃げ延びた。
- 日暮れに兵を収めた元璋は、韓成の死を悼み、劉基の不在中にこの危機に陥ったことを嘆き、徐達に急ぎ劉基を呼び戻すよう命じた。
劉基・鉄冠道人・周顛の来着と火攻めの策
- 友諒は再び大艦隊で迎え撃ち、元璋軍は苦戦して総崩れとなりかけた。郭興は「敵船は大きく我が船は低いため不利であり、火攻めしかない」と進言したが、元璋は前回の火攻めが決定打にならなかったことを懸念していた。
- そこへ劉基が、道士姿の張中(鉄冠道人。かつて元璋の相を「帝王の相」と予言した人物)と、僧姿の周顛(未来を占う異能の人物)を伴って現れた。劉基の勧めで元璋はいったん兵を退かせて軍議を開いた。
- 劉基も火攻めを主張し、鉄冠道人は「今夜黄昏に東北の風が吹く」と予言、周顛も友諒の運勢が尽きていることや、元璋軍の吉凶を占い「災いはあるが救いの星があるので心配ない」と告げた。二人は策の実行そのものには関わらず立ち去り、劉基が元璋に密策を授け、常遇春らへ準備を命じた。
火計による友諒軍の壊滅
- 夕刻、予言通りの風が吹き、藁人形を満載した小舟七艘が友諒軍に接近した。矢や槍が効かないことに友諒軍が動揺したところへ、敢死隊が鉄鉤で大船を引き寄せ、油を含んだ蘆葦や硫黄・火薬を投げ込み、たちまち猛火が燃え広がった。
- 友諒の弟の友仁・友貴や平章の陳普略らが応戦したが黒煙に阻まれて次々と水中に落ち命を落とした。友諒は西へ敗走したが、連結した大船が動きづらく、焼死・溺死・討死が数知れなかった。元璋方でも張志雄が自刎し、余昶・陳弼・徐公輔が戦死、丁普郎は首を落とされてもなお舟中に立ち続けたという壮絶な戦いであった。
白い帆柱の計と難を逃れた元璋
- 友諒は元璋の座船の帆柱が白いことに目をつけ、翌日は白い帆柱を狙って総攻撃をかけようとしたが、味方の船もすべて白い帆柱にしていたため判別できず、混乱のまま戦いに突入した。
- 戦闘中、劉基が突如「主公、早く船を替えてください」と叫び、元璋が言われるままに移乗した直後、元の座船が砲撃で撃ち砕かれた。劉基は「難星は過ぎました」と告げ、友諒は元璋を討ち取ったと誤認して落胆した。
総攻撃と友諒軍潰滅、鞋山への逃走
- 廖永忠・俞通海らの六隻が敵陣深く突入して斬り込みと放火を行い、元璋軍の士気は最高潮に達した。敵船は大混乱に陥り、逃げ場を失った。
- 友諒は張定邊の決死の護衛でかろうじて脱出し鞋山へ退いた。元璋は罌子口まで追撃したが水路が狭く進撃を控え、友諒も出てこなかった。俞通海の進言で元璋は左蠡へ移陣し、友諒も渚磯に布陣し、数日にらみ合いが続いた。
元璋の降伏勧告状と友諒軍の切り崩し
- 元璋は友諒に「大船に頼り決戦を避けているのは丈夫らしくない、決着をつけよ」との趣旨の書を送った。折しも友諒配下の左右金吾将軍が投降し、友諒の孤立が明らかになった。
- 友諒は使者を拘禁し捕虜を殺害したため、元璋は逆に友諒軍の捕虜を全員解放し治療まで施し、「以後、友諒軍を捕らえても殺すな」と命じた。さらに「土地はすでに得た、帝号を返上して真の主に従うべきだ」との趣旨の書を重ねて送った。
友諒の最期
- 友諒は返書もせず南昌へ食糧強奪に向かわせたが朱文正に撃退され、進退窮まった。元璋が水陸の陣を固めて待ち構える中、友諒は決死の突囲を図り、家族も顧みず張定邊とわずかな供で脱出、残兵は逃げ惑った。
- 追撃の途上、元璋は舟を漕ぎながら歌う鉄冠道人に出会い「友諒はもう死んだ、だから暇なのだ」と告げられた。まもなく友諒が涇江で伏兵に襲われ流れ矢が目から頭を貫いて絶命したとの報せが届き、鉄冠道人は「どうだ」と言い残して立ち去った。
- 元璋軍は友諒の妃・闍氏とその子・善兒を捕らえ、降将陳榮や五万余の降卒を得て、友諒の死を確認した。友諒は帝号を称してわずか四年、四十四歳での死であった。(挙兵当初、父の普才が「漁師の身で大事を謀るとは」と諫めたが聞き入れず、僭号後に父を迎えようとしても父は応じず、その通り破滅した、という因縁が語られる。)
凱旋と後日談
- 応天へ凱旋した元璋は劉基に「安豐へ出兵したのは誤りだった、友諒が応天を突けば大事だった」と述懐し、祝宴を開いた。その夜、元璋は友諒の妃・闍氏の美貌に心を動かし、身重の身であった闍氏を無理に側に召し、契りを結んだ(後にその子・梓にまつわる事情が後段で語られる)。
- 常遇春・廖永忠・俞通海らに恩賞が与えられたが、張中・周顛の二人は行方が知れず恩賞を保留された。
- 数か月の休養の後、元璋は武昌の陳理を攻め、四門を柵で囲み水路も封じて漢陽・徳安なども攻略した。年末に応天へ戻り、常遇春らに武昌包囲を任せた。
- 至正二十四年正月、李善長・徐達らの勧進により元璋は呉王を称し、百官を整えて即位の儀を行った。李善長を左相国、徐達を右相国、劉基を太史令、常遇春・俞通海を平章政事、汪廣洋を右司郎中、張昶を左司都事とし、「元朝の乱れを鑑とし、綱紀と法律を正して協力して治めよ」と諭した。武昌の戦況が届かぬまま、元璋は再び自ら視察に出向くことになった。