明史演義第一〇〇回 外援を求め清軍が乱を平定す/半壁を覆し明史ここに収まる (乞外援清軍定亂 覆半壁明史收場)
北京陥落後の殉節
- 費宮人は賊を刺し自らも自刎した。太子は周奎に拒まれ結局自成に捕らわれて宋王に封じられ、永王・定王も捕らわれたが害されなかった。
- 大学士范景文、戸部尚書倪元潞、左都御史李邦華ら多数の官が自刎・首吊り・投井などで殉死し、宣城伯衛時春ら勲戚も同日に命を絶った。襄城伯李國楨は自成に降伏の条件として皇陵の保全・帝礼での改葬・太子と永定二王の保護の三か条を求め、自成が承知すると素服で祭って自らも縊死した。名も無い野菜売りや樵、乞食までもが殉死し、当時の人々の悲憤の深さが伝えられる。
- (明朝は洪武元年より崇禎十七年まで、十六代十二世、二百七十七年続いた、と総括される。)
李自成の入城と暴政
- 朱純臣・魏藻德・陳演ら旧臣は自成に阿り勧進の上表まで行ったが、自成はまず彼らを拘束し金品を厳しく取り立てさせた。周奎・王之心らの邸からは莫大な金銀財宝が押収されたが、それでも満足せず拷問は苛烈を極めた。
- 自成は武英殿で即位したが、玉座前に巨大な白衣人の幻影を見て怯え、鋳造した貨幣も印璽も失敗続きで、心は乱れ、宮中で酒色に耽って紛らわせた。
呉三桂と陳圓圓
- 呉三桂配下への降伏工作の最中、自成は三桂の愛妾・陳圓圓が自成軍に奪われたことを知り激怒し、自ら山海関へ出兵した。
- 圓圓を奪われた三桂は父・呉襄からの勧降の書にもかかわらず翻意し、山海関で清軍に援を求めた。折しも清太宗が没し幼主福臨(順治帝)が立ち、摂政の睿親王多爾袞が大軍を率いていた。多爾袞は三桂と盟を結び共に自成を討つことになった。
山海関の戦いと清軍の入関
- 清軍と呉三桂の連合軍は自成軍を撃破し、自成は「満洲軍が来た」と叫んで敗走、追撃を受けて呉襄一族を殺害し北京へ逃げ戻った。
- 自成は財貨を持ち出し、宮闕に火を放って太子・二王を伴い西走した。無人となった北京には三桂に奉じられた清の摂政王が入城した。三桂は陳圓圓を捜し回った末に再会でき、寵愛を深めた。
- 多爾袞は民を安んじる布告を出し、崇禎帝夫妻の改葬・陵殿の造営を行い、生き残った袁貴妃・長平公主も厚遇した。北京の民は清軍の秩序正しさに旧闖賊との違いを見て次々に帰順し、明の天下は事実上清に帰した。順治帝は七歳で入関し即位、呉三桂は平西王に封じられ、孔有德・耿仲明・尚可喜・洪承疇ら旧明の降将も次々に王侯に封じられた。
李自成・張献忠の最期
- 清軍は西安に逃れ潼関に拠った自成を阿濟格・多鐸らが両路から挟撃し、自成は武昌を経て九宮山まで敗走したところを土民に討ち取られた。牛金星・劉宗敏らも捕らえられ処刑された。
- 張献忠も西充での戦闘中、清将雅布蘭の矢で落馬したところを乱刀で討たれた。両賊の最期はあっけないものであった。
弘光政権の成立と混迷
- 河北一帯は清の支配下に入り、江南では福王由崧が馬士英・高傑・劉澤清・黃得功・劉良佐ら四総兵に擁立された。史可法は福王の凡庸を理由に潞王擁立を主張したが受け入れられず、由崧は監国を経て即位、弘光帝となった。
- 馬士英は権力を独占しようとし史可法を外に出して自らは入朝、四総兵を四鎮に分けて淮揚一帯を守らせたが、諸鎮は互いに反目し、史可法の調停でようやく治まった。弘光帝は政務を顧みず馬士英に一任し、士英は旧魏忠賢派の阮大鋮らを重用して東林派を排斥、崇禎帝の諡号をめぐっても対立するなど朝政は乱れた。
弘光帝の放埓と朝廷の腐敗
- 弘光帝は美女狩りや媚薬集めに耽り、阮大鋮は戯曲を献じて歓心を買い、正論を説く劉宗周・姜曰廣・高弘圖らは次々に退けられた。史可法の度重なる上奏も顧みられなかった。
- 清の多爾袞は史可法を招降しようとしたが拒まれ、和議のため送られた左懋第も清に抑留され、屈せずに殺された。
史可法と揚州の陥落
- 清の豫親王多鐸が南下する中、諸鎮は観望するばかりで、高傑は睢州の許定国に謀殺され、清軍は徐州・宿遷へと進んだ。さらに左良玉が「君側の奸を除く」と称して東進したため、南京は史可法を呼び戻して防がせ、結局揚州へ戻った時には清軍がすでに迫っていた。
- 総兵李棲鳳らは戦わず降伏し、揚州は劉肇基ら少数の兵で数日持ちこたえたが陥落し、劉肇基は市街戦で戦死、史可法も自刎を果たせぬまま清兵に殺された。翌年、遺品を用いて梅花嶺に葬られた。
南京陥落と弘光帝の末路
- 揚州陥落後、清軍は長江を渡り、鎮守の将は戦わず逃走した。急報を受けた弘光帝は愛妃を伴い蕪湖へ逃げ、南京の趙之龍・王鐸らは城門を開いて清軍を迎えた。
- 追撃を受けた黄得功は寝返った劉良佐との舟戦中に矢を受けて自ら喉を突いて死に、部下の田雄は弘光帝とその愛妃を捕らえて清軍に献じた。弘光帝は捕虜として北京に送られ、江南は完全に清の版図となり、応天府は江寧府と改められた。
南明諸王の興亡
- 潞王常淓は杭州で監国を称したが清軍にすぐ降伏し、劉宗周は絶食して殉節した。魯王以海は紹興で監国を称したが一年で陥落し海上に逃れて客死した。
- 唐王聿鍵は鄭芝龍・黃道周に擁立され隆武帝と称したが、馬士英・阮大鋮の内通により清軍を招き入れられ捕らわれて自尽した(馬・阮も後に清軍に殺された)。弟の聿は広州で紹武帝を称したが一月で捕らえられ自ら縊死した。
- 桂王由榔は肇慶で永曆帝を称し、清に対して十数年抵抗を続けたが、最終的に緬甸へ逃れ、清に降った呉三桂の圧力で現地から引き渡され処刑された。これをもって明室の宗支は絶えた。
鄭成功と本編の結び
- 明の遺臣の抵抗のうち最も著名なのは鄭芝龍の子・鄭成功である。父が清に降った後も抗戦を続け、台湾のオランダ勢力を駆逐して拠点とし、二代を経て後に清軍に平定された(この経緯は著者の前著『清史通俗演義』に詳述済み)。
- 本回は弘光帝および魯・唐・桂三王の顛末を大綱として述べ、『明史演義』全百回の締めくくりとした。
評語
明末の惨状を悼む数首の弔亡詩が引かれ、いずれも王朝滅亡と佳人の運命を重ね合わせて哀切を詠むもので、著者は「巫峡の啼猿」にも似た嗚咽の情として、これを割愛せず巻末に付したと述べている。