民國演義第一四九回 後路を救わんとし衡山守りを失い、関余を争い外使驚惶す (救後路衡山失守 爭關餘外使驚惶)

株洲・湘潭をめぐる攻防

  • 和議決裂後、譚延闓は魯滌平らと計り、長沙対岸の蔡巨猷軍(劉序彝部)や湘陰・赤竹・洙州方面の兵とともに長沙総攻撃を企てたが、魯軍の準備が間に合わず一斉発動できなかった。
  • 譚延闓は株洲方面で謝国光部・広東より来た湘軍を率い唐生智と交戦。謝国光に側面攻撃をさせ挟撃を図るが、唐生智の求めに応じ賀耀祖が長沙防衛の任を馬済に譲って急遽来援し、形勢は逆転して譚軍は退却に追い込まれた。

靖港・湘潭の攻防

  • 趙恒惕は密命で鄒鵬振・劉重威両部を長沙に呼び戻し、霧に紛れて対岸の蔡巨猷軍を急襲させる。馬済も砲台から援護射撃し、両部は上陸して白兵戦の末、劉序彝部を大敗させた。
  • 葉開鑫は易家湾から渡河して湘潭を攻め、魯滌平軍と一昼夜戦うが決着つかず。そこへ鄒鵬振旅が靖港から援軍に駆けつけ魯軍の側面を突いたため、魯滌平は湘潭を捨てて撤退、譚延闓と合流した。

譚延闓の撤退決断

  • 譚延闓は、孫大元帥から東江(博羅・河源陥落)救援の命が届いたこと、また呉佩孚が沈鴻英に贛辺から郴州経由で背後を突かせようとしていることを理由に、株洲防衛線を捨てて宜章救援を優先すると魯滌平に説明。魯滌平も同意し、両軍は合流して宜章へ向かった。趙軍はこの隙に衡山・衡陽を奪還した。
  • 唐榮陽は譚軍敗北を見て再び趙側に寝返り常徳の蔡軍を攻撃するなど、諸将の去就は情勢次第で目まぐるしく変わった。

郴州の攻防と防衛線協議

  • 郴州が沈鴻英に奪われ広東からの弾薬補給路も断たれたため、譚延闓は全力で郴州を奪還し沈軍を贛辺へ押し戻す。その後、魯滌平・方鼎英・謝国光・呉剣学・朱耀華・劉雪軒らと今後の方策を協議し、湘南・湘西の連絡維持のため永州・宝慶の確保を優先することを決定。劉雪軒が永州死守を志願した。
  • しかし弾薬・食糧不足と広州情勢の緊迫で軍心は揺らぎ、宝慶・耒陽・祁陽が相次いで陥落。劉雪軒は救援も求めず、あっさり趙軍に降伏した。

湘西の崩壊と粤辺への撤収

  • 大勢を悟った譚延闓は全軍に粤辺への撤退を命令。魯滌平・朱耀華・方鼎英・黄耀祖らは楽昌、謝国光は仁化、呉剣学は九峰、陳嘉祐・蔡巨猷の一部は星子へと配置される。
  • 湘西では蔡巨猷が唐榮陽・陳渠珍の離反も受けて孤立し、武岡・安化も失陥。年末(十二月三十一日)に葉開鑫が洪江を陥落させ、蔡巨猷は貴州へ逃れて湘西の軍事は決着した。敗残兵は各地で匪賊化し、湘西は長く治安が乱れることになった。

広州帰還と黄耀祖・汪磊の離反

  • 譚延闓は東江討伐の元帥命を受け軍議を開き、諸将は即時帰粤に賛成する中、黄耀祖と汪磊のみが粤辺防衛への残留を申し出た。呉剣学は二人の言動を怪しみ譚延闓に警戒を促すが、譚延闓は強いて武装解除すれば紛争を招き東江の戦に支障が出ると考え、あえて信を示して二人を留守に任せた。
  • 果たして黄耀祖・汪磊は道中で兵を集めて湘南(趙側)に投じ、譚延闓は嘆息するのみであった。

孫中山との会見

  • 広州に着いた譚延闓は孫中山と面会。石灘の戦いで劉震寰部の突然の兵変により勝機を逃した経緯を聞く。中山は陳軍の二つの失策(林虎の進撃を待たず石龍を占領したこと、石龍占領後に前進を怠り味方に守備の余裕を与えたこと)を挙げ、樊鍾秀の来援や譚延闓の到着により数日中に反攻・石灘奪還は確実と自信を見せた。

関余をめぐる外交交渉

  • 中山は北伐継続の財源として、関税余剰金(関余)を北京政府から取り戻す方針を説明。十一月五日付で北京の外交団に照会し、粤海関の関余は西南人民の負担であり、それを北京政府が西南への軍事行動(陳炯明ら)の資金源にするのは不当だとして、以後の関余を南方政府が直接受け取ると要求した。
  • 外交団の返信は、関余は北京政府への協議事項でありこれを拒めば強制手段を取ると強硬な内容だった。中山はこれに憤りつつも、外交団が実際は軍艦を派遣して威嚇するにとどめており、必要なら南方諸港を自由貿易港とする対抗策も準備していると譚延闓に語った。

東江反攻の勝利

  • 翌日、中山は譚延闓・許崇智・樊鍾秀らに陳軍反攻を命じ、范石生には増城迂回で林虎の退路を断たせた。食糧不足の陳軍は各所で敗走し、石龍・石灘は奪還される。林虎も范石生・許崇智軍に挟撃されて増城で大敗し、要害に拠って守勢に転じた。
  • 苦境に陥った陳炯明は洛陽の呉佩孚に急使を送り、江西の方本仁・湖南の唐生智・沈鴻英に広東進攻の援軍を要請した。呉佩孚がこれに応じるか否かは次回に持ち越される。

評語

  • 中山が関余をめぐり北京の外交使節団に送った照会文を評し、帝国主義列強が中国の内乱を長引かせることで自らの権益と干渉の機会を保とうとしていること、そのために西南の関余をあえて北京政府に渡し内乱資金として使わせている構図を指摘する。列強は決してこの不公平を改めるつもりはなく、むしろそれを当然の手段と考えている、と痛烈に批判している。