民國演義第一四一回 宣言を発し孫中山粤に回り、北江に戦い楊希閔功を奏す (發宣言孫中山回粤 戰北江楊希閔奏功)
孫中山の広東復帰と裁兵宣言
- 許崇智が潮陽に戻った頃、孫中山は既に上海から広東へ帰り大元帥に再任。胡漢民・孫洪伊・汪精衛・徐謙を上海駐在の和平統一代表に、徐紹楨を広東省長、沈鴻英を桂軍総司令、楊希閔を粤軍総司令に任命した。
- 孫中山は宣言を発し、以前提唱した和平統一・裁兵綱要への各方の賛同、江防司令部(海珠会議)事件による代表派遣中止への遺憾、直系諸将の裁兵論への無反応への疑念を述べつつ、まず自らが範を示すべく広東の兵力を半減させると表明した。国家建設は武力削減から始めるとの趣旨であった。
沈鴻英の離反
- 李烈鈞が広東に戻り閩贛辺防督弁に任命され、陳炯明旧部の潮汕収編を命じられた。空いた潮汕防地は許崇智へ引き継がれた。
- 北京政府は沈鴻英・楊希閔らを広東軍務督理に任じたが、両者は孫中山への帰服を理由に固辞。しかし駐兵過多を懸念した孫中山が沈鴻英に西江への移防を命じると、沈鴻英は不満を抱きつつも表向き従った。
- 曹錕・呉佩孚側は孫中山の広東での地歩を警戒し、沈鴻英に対し「孫氏の真の腹心は許崇智だけで自分たちは信用されていない、いっそ中央に帰順し広東督理の座を得よ」と繰り返し説き、野心家の沈鴻英は次第に動かされた。
- 呉佩孚側は張克瑤・方本仁・岳兆麟らを贛南に配して支援を約し、沈鴻英は移防を名目に韶関・新街に兵を集結、四月十六日に新街で北京政府任命の広東軍務督理に就任し、孫中山の離粤を要求する通電を出して広州の楊希閔軍を攻撃した。
北江の激戦(緒戦)
- 孫中山は楊希閔・朱培德ら滇桂粤各軍に迎撃を命令。数日の激戦の末、沈鴻英軍は敗れて新街へ退却。楊希閔が追撃し新街も維持できず源潭へ後退、両軍対峙となった。
- 同時に肇慶方面では沈鴻英配下の張希栻部と孫中山系の陳天太部が交戦した。
- 孫中山は陳策・周之貞を派遣して西征させ、当初後退していた陳天太に代わり肇慶を巡る攻防が続いた末、陳策・周之貞が最終的に肇慶を占領し、抵抗した張希栻は梧州へ敗走した。
楊希閔の清遠攻略と韶関攻防
- 楊希閔は孫中山の密計により清遠を攻略し沈鴻英軍の西路連絡を遮断。沿線の源潭・英徳・琵琶江を次々に制圧し、沈鴻英軍は韶関、次いで南雄へと後退、方本仁ら北軍に救援を求めた。
- 方本仁の援軍と粤軍謝文炳の加勢を得て沈鴻英軍は勢いを盛り返し韶関へ進撃。孫中山は「今は退いて敵の驕りを誘い、気勢が衰えたところで反撃せよ」と楊希閔に指示し、楊希閔軍はあえて力戦せず退いたため、沈鴻英軍は韶関・英徳を再占領した。
北軍の驕りと形勢逆転
- 勝ちに驕った北軍は沈鴻英・謝文炳の兵まで見下し虐待するようになり、両軍の兵士の間に強い怨嗟が広がって士気は低下した。
- これを察知した楊希閔は、英徳の手薄な謝文炳軍を急襲して不戦のうちに潰走させ、謝文炳は湖南経由で上海へ去った。
- 続いて楊希閔は師長趙成梁に韶関背後の平圃司を奇襲させる策を授け、自らは正面から韶関を攻撃。沈鴻英は後方の危機を知りつつも「救援に向かえば敵の計にはまる」と判断し正面決戦を選ぶが、両軍の挟撃で沈鴻英軍は総崩れとなり、仁化経由で南雄へ、さらに江西大庾へと敗走した。北江の戦局はこれで終結したが、東江の戦いは依然激化していた。
評語
- 軍閥の勢力は興りやすく倒れやすい。その盛況は自らの実力ではなく寄せ集めの雑軍によるもので、規律も持久力も乏しいためすぐに他者に吸収されて瓦解する。陳炯明の叛乱以後、西南各派が入り乱れて争ったのもみな烏合の雑色軍だったからである。もし孫中山配下に留まり続ければ孫中山自身も軍閥じみてしまったであろうが、天がこれらを相次いで叛かせ、孫中山の嫡系軍の手で一掃させたことで、内部の粛清と革命の成就がもたらされた。陳炯明・沈鴻英らの不良を責めるより、天がその叛乱を促し自滅させて孫中山の偉業を成らしめたと見るべきである。